黄昏通信社跡地処分推進室

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Olivia's Mystery -- Prologue



「皇帝の娘を助けなければならない」
そう、勝手に信じ込んだ男が、世界の果てへと旅に出る。



過ぎ去ってしまったことをあれこれと考えるのは、まだ起きていないことについて心配するのと同じくらい意味のないことだともいう。
あの給水場事件が事故だったのか故意だったのか、僕には未だにわからない。事故にしては運が悪過ぎたし、テロリズムにしては鮮やか過ぎた。いくつもの団体がお約束の犯行声明を出したが、誰の仕業かは見当もつかなかった。僕は当時けっこう閑だったので声明の主を全部調べてみたのだが、その半数以上は聞いたこともないような小さな団体だった上に、先月北部で発生した竜巻にも犯行声明を出していた。名を知られている組織もいくつかあったが、自分のところがやったという証を示せたところはひとつもなかった。物的証拠もなかったため、最終的には事故として処理された。妥当だったと思うけど、もやもやするものも残った。
事件のあと、僕はしばらくサーカスで働いていた。例のビル登りが団長の目に留まったらしくスカウトされたのだが、入ってみると仕事は水汲みばかりだった。給水場が機能を停止してしまった影響は小さくなく、運の悪いことにこの夏に限って日照りが続いたため、団員と動物の生活を維持するためには大げさでなく一日中水の確保に奔走するような有様だった。やりたいことも仕事も金もない日々に比べれば、素晴らしい毎日だと思えた。苦労して手に入れた僅かな水は何にもたとえようがないほど旨かった。
毎日僕はでかいバケツを持って、自走大型給水塔の列に並んだ。その姿は自覚していた以上に目立っていたらしい。すぐに顔見知りが何人もできた。
「高い金かけてこんなもん作って、何になるんだろうなんて言われてたけどなあ」
隣に並んでいた男が塔を見てしみじみ言った。
「今じゃ給水塔様様ですよね」 僕は応じた。
「帝国研究都市もたまには役に立つってこった」
この辺りはもともと塩分の強い土地で、井戸を掘ってもそう簡単には飲み水は手に入らない。給水場が当たり前のように水を送っているうちは忘れかけていた事実が、今や渇きという具体的な危機として目の前に突きつけられていた。
自走給水塔は、予めルートを設定すると、自ら水を求めてコースを微修正しながら歩き回って、地中深くから真水を汲み上げる。あまり多くの水は供給できないが、それでも人がなんとか生活できているのは、ひとえにこの“すぐれもの”によっていた。
僕は近くを通りそうな給水塔の情報を集め、水を運べる範囲にいる限りは毎日通った。ただでさえ巨大なバケツを持ってはしごまでしていたのだから、当然いい顔はされない。ところが、僕がサーカスの水を集めていると知ると、意外にも結構みんな優しくしてくれた。こんな時にサーカスどころじゃないだろうと思っていたけど、客の入りだっていつも多かった。こんな時だからこそ、人は娯楽を欲していたのかも知れない。
ある日のこと。僕の後ろに並んでいた、見憶えのないやたらとガタイのいい男が話しかけてきた。なんでもこの日照りで近郊の山から出てきたのだという。わざわざ山から出てくるのは不思議に思えて訊いてみると、その人の住む辺りは水量の豊かな川がないのだそうだ。嶺と谷の形状のいたずらで、ところどころそういうところはあるものらしい。
「こいつも山の中までは入って来れんからな」
男は給水塔を見上げると、眩しそうに目をすがめた。
「無理でしょうね」
「それでもおれらはまだましなんだ」
男は続けた。古くから山に住む人たちは、ため池や湧き水でしのぐ術を知っている。だが、最近移り住んだ人たちは、初めから水道に頼り切っているから、備えも技術もなくて苦労しているという。
「皇女さまもお身体の加減が思わしくないとかって聞いたぜ」
「……皇女さま?」
思いもかけない名前が出てきた。皇帝陛下のひとり娘が、水不足で体調を崩してる?
「ほら、なんつったかな、帝国の、最近帝都から移って来た」
男はもどかしそうに頭を掻いた。「実験したり、発明したりしてるとこだよ、あんじゃねえか」
「――帝国研究都市」
「それだよ」
研究都市に、皇女が(表向きは)避暑のために滞在している、という話はそういえば聞いたことがあった。度重なるテロに音を上げて引っ越した研究都市に、民衆に好かれている皇女をわざわざ送ったということで、発表された時は皇帝を非難する声が小さくなかった。だが誇り高い皇女は眉ひとつ動かさず研究都市に赴いた。批判の声は長保ちしなかった。
「水がねえんだってよ。あるにはあるんだが、簡単に研究止めちまうわけにもいかんし、飲み水にはあんまり回らないんだそうだ」
なんと皮肉な話だろう。帝国研究都市が開発した珍しく役に立つ発明品は、研究都市自体には全く貢献できないのだ。
「皇帝陛下は皇女さまに水を送ったらしいんだけど、飲まないんだ。給水を1日止めて集めたとかっていうのがどっかで伝わってて、これは民の水ですから飲むわけにいきませんってな。」
「立派ですねえ。おれだったら喉渇いてたら飲んじゃいますけど」
「そうだよなあ。それで身体壊してるんじゃしょうがねえけどなあ」
皇帝は皇女を連れ帰るため研究都市へ人を差し向けた。向こう気の強い皇女は帝都へ戻ることを断固として拒んだ。皇帝は慌てたが、まだ自ら迎えに行く決心はつかないらしい。そして皇女は周囲の人より多くの水を摂ることを潔しとしないままだ。
僕は帝国研究都市のあると思しき方向を見やった。町並みに阻まれて、都市の姿はもちろん見ることができない。わずかに雲の浮かぶ少し白っぽい青空が、覆いかぶさるように広がっていた。当分雨は降りそうにない。
その話を聞いた次の日、僕はいつもの倍の勢いで働いて、どうにか三日分の水を確保した。一日中、考えていることは同じだった。この間ビル登りをした時もちょうどこんな気持ちになった。きっとどうにかなるだろう、誰かがなんとかするだろう、そう思うことはしょっちゅうある。でもその誰かはそんな時どう思ってるんだろう?
かつて一度だけパレードの時に見たことのある皇女の顔が、ぼんやりと記憶の底からよみがえる。もう何年も前だけど、少年のような顔立ちと意志の強そうな瞳はいずれも既に皇帝には似ていなかった。あの女の子が、いま水が足りなくて苦しんでいる。
僕はその夜サーカスのみんなが寝静まってから、置き手紙を書き身支度を済ませた。幸か不幸か、僕には宿も無ければ金も無く、恐れるものは何もない。
……助けに、行かなければ。
僕が助けに行かなければ。