黄昏通信社跡地処分推進室

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初詣

寮の廊下に立ってさえ、吐く息がはっきりと白い。休暇中は断熱魔法が弱められている上に、熱源となる生徒の数が激減しているのだから、寒いこと自体は仕方ない。だが、それにしてもこの冬でおそらく一番の冷え込みだろう。
僕は屈み込んで靴紐を一旦ほどいた。普通の靴下の上に毛糸の靴下を重ねて履いてきたのは正解だったが、流石に靴の据わりが悪い。あまり締め過ぎても靴下の意味がなくなってしまうので、全体を一旦緩めてから平均的に締め直す。
両足の紐を直して立ち上がったところで、ちょうど目の前の扉が開いた。
「……お待たせしました」
見るからに重そうな長い外套を着込んでカイルは現れた。首には襟巻きをぐるぐると巻いている。「部屋で待っててくれればよかったのに」
「そんなに時間かからないと思ったんだよ」 僕は正直に答えた。
「ごめんなさい」
カイルは軽く頭を下げる。
「いや、僕が勝手に待ってたんだから謝ることはない」
僕は言ったが、カイルは肩をすくめると、何も言わずに振り向いて自室の扉に鍵をかけた。
ふたりで廊下を歩き出す。さほど大きくはない足音が、妙に響いて聞こえる。この階だけでも残っている生徒は他に居る筈だが、まるで寮全体に僕たちしか残っていないように感じられた。照明の輝度も同じなのに薄暗く見える。
戸口をくぐって表に出ると、冬の陽が弱々しく玄関先を照らしていた。冷たい空気が頬に当たったが、やたらと天気は好かった。雲というものが見当たらない。
「今日の空は古い屋根のよう」 僕は思い出した言葉を口に出してみた。「……って、誰の言葉だっけ?」
「さあ」 
「抜けるような青さ、ってわけ」 言いながら少し恥ずかしくなる。
「そういう青さじゃないような気もしますけどね」
なるほど、言われてみると冬らしく微妙に空は白みがかっている。上空は風がそこそこありそうなのだが、乾燥している分埃が多いのだろうか。
外を歩き始めると、どうしようもない寒さではなかった。陽が当たる分寮の廊下よりはましとすら思えた。それでもお世辞にも暖かい日とは言えない。
敷地にも人の気配は殆どなかった。と、少し奇妙なシルエットの人影が遠くに見えた。なんとなく見覚えのある歩き方だな、と思っていると、案の定アメリア先生だった。マントを身体に固く巻きつけているため、遠目にはおかしな姿だったようだ。もっとも、近付いてもあまりまっとうな恰好ではなかったが。
「あけましておめでとう!」
まだ少し離れているうちから、先生は大きな声で挨拶してきた。
「おめでとうございます」「あけましておめでとうございます」
僕らが口々に応じると、先生は小走りに近寄ってきた。
「元気でやってるようでなによりだわ。カイル君は年越し常連だけど、セリオス君は珍しいんじゃない? 初めてでしょ、寮で新年迎えるの」
「ええ」
「どうだった? 流石に寂しかったんじゃない」
「いえ、そうでもありませんでした。」
それ以上何を言っていいかわからなかったが、アメリア先生はにっこり笑って「そう? それならよかったけど」と言っただけだった。
実際、実家とは連絡も取っていたし、寂しいというようなことはなかった。むしろ、思っていたよりずっと気楽で快適だった。
「先生は日直ですか」
カイルが訊いた。
「そうなのよ。今年は元日を引き当てちゃって。まあいいわ、家に居てもごろごろしてるだけだし、みんなに会って新年の挨拶もできるからね」
「ちょっと、初詣に行ってきます。すぐ戻りますので、ご心配なさらずに」
「ああ、ごめんなさい、引き止めちゃって」
そこでアメリア先生はちょっとだけ改まった表情になって、「今年もよろしくお願いします」深々と頭を下げた。
お願いします、と応じて、先生とは別れた。
少しの間だけ、ふたりとも黙って歩いた。なんとなく、先生の存在がぼんやりと残っている気がした。僕にとっては、ここ何日かカイル以外と殆ど話していなかったからかも知れなかった。カイルにとってどうだったのかはわからない。
数分すると、カイルがひょこっと訊いてきた。
「あれ、わかりましたか」
歩いていると最近考えていることが自動的に頭に浮かぶ。どうやら同じことについて考えていたものらしい。
「いや、全然」
「ですよねえ」 カイルはため息をつく。「やっぱり、普通に考えて左右対称にパターンが現れないのはわからないです」
このところの僕とカイルとの間での流行りは、アカデミーのトーナメントシステムにおける「並べ替え」の出題パターンだった。6文字の並べ替えは、普通に考えれば 720 通りの初期配置が考えられる。でも、システムではそのうちたったの7通りしか使われていない。それがそもそも解せない話ではあった。となると、結構特殊なアルゴリズムが使われているんじゃないかとまあ考える。
ところが、そこで僕とカイルは行き詰まってしまった。だいたい、偶数から抽出して奇数が残るってどんな手順なんだろう。それでも、7通りのうち6通りはそれぞれ左右対称の操作である3組に分けられた。逆に、残る1通りに鍵があるように思える。
「……答え出されれば、なんだこんなことかって思うんだろうけどな」
「まあそうですね。でも、これについては、こんなことしてるのかよ、って思うことになるような気もしますよ」
ひとしきり考えの進捗を報告し合い、最後はこんなやりとりになった。今日も全く進歩はなかった。
神社は寮からほど近く、そんな会話をしているうちに僕たちは辿り着いていた。入口の階段を登ると、参道が少し続いている。正月だというのにここもあまり人気がない。よく冷えた、静謐な空気が境内を満たしている。参道は日が当たらずおそろしく寒かった。僕たちの歩みは自然に早くなった。
手水舎は凍結しているかと思ったが、わずかずつ水が流れているために凍ってはいなかった。諦めて手を清めると、思わず呻き声をあげそうになった。根拠はないが、たしかに清められたような気にはなる。
石段を数段上り、神前に立つ。鈴を鳴らして賽銭を投げ込み、二回頭を下げて二回手を打った。もう一度頭を下げ、願い事を頭の裡で口にした。さて、初詣というのは願い事をするものだったか。まあ本気で信じているわけでもなし、気にしても仕方ないのだけど。
あっさり参拝を終えると、まだカイルは隣りで手を合わせていた。自分に丁寧さが欠けているような気がして一瞬居心地が悪くなる。だけどカイルと比べるのならそれは多分間違いないだろう。
参拝を終えると、小さな社務所に申し訳程度に出ている売場を覗いて、おみくじを買った。末吉というなんともコメントしがたい運勢だった。失物は出ないらしいので、先日レオンに借りて明らかに僕の部屋の中で行方不明になった CD は諦めることにする。カイルは「中吉」を引き当てていた。なんともカイルらしい、と言ったらこんなにいいのは生まれて初めてです、と返された。
その辺におみくじを結びつけて、僕らは帰路についた。
「……なに、お願いしたんですか」
少し歩いた辺りでカイルが訊いてきた。
僕はちょっとためらったが、結局正直に答える。「いつか賢者になれますように」
「へえ」
カイルは少し驚いたようだった。「普通ですね」
「普通じゃいけないのか?」「いえ、そんなことないですけど。」
「カイルは何願ったんだよ」
僕が訊き返すと、カイルはいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて応じた。
「ぼくの周りの人たちの平安です」
それから少し照れたように頭の後ろに手をやって、「と言っても、広範過ぎてあのお賽銭の額じゃ多分心許ないですね。まあでも、気持ちとしては。」
「ふーむ」
きっと、これこそがなんともカイルらしい、と形容すべき部分なのだろう。
参道の入口の方から人が歩いてくるのが見えた。長い紫の髪のためにすぐにマラリヤだと判った。例のごとく連れもなく、速くもなく遅くもなく淡々と歩いている。いつも薄着の印象があるが、流石に少し丈の長い外套を着込んでいた。それでも防寒が万全には見えない。
マラリヤもすぐに僕たちには気付いたようだったが、特に近づいてくるでもなかった。放っておけばそのまますれ違いかねない感じだったので、僕は敢えて正面に出てみた。
「あけましておめでとう」
「……おめでとう」 小さな声でマラリヤは応じた。カイルも深々と頭を下げている。
「初詣?」 僕は明らかなことを敢えて訊いてみた。
「まあ、そんなようなものね」
マラリヤはそっけなく応じたが、一瞬だけ目を伏せたように見えた。
「じゃあ、お気をつけて」
僕はそう言って歩き出し、数歩進んですれ違いかけてから、足を止めて再び声をかけた。「そうだ、マラリヤ、」
マラリヤは黙って振り向いた。無表情を保っていたのは流石というべきか。
「家から餅が大量に送られてきてだぶついてるんだ。要らないか?」
ようやくマラリヤは表情らしい表情を浮かべ、不思議そうに僕の顔を見つめた。だがそれも1秒半ほどしか続かず、すぐに元の顔に戻ってしまう。
「……考えておくわ」
それだけ言って、僕の反応も殆ど窺わないまま奥へ歩いていってしまった。どっちにしても僕は気の利いたことは何も言えなかったけど。
僕とカイルも、また出口の方に向かって足を運び始める。
「どうして、あんなこと訊いたんですか」
カイルが訊いてきた。
「いや、絶対ノータイムで断られると思ったんだ」
僕は応じた。「……一本取られたな」