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紙というメディアの優位性:つづき

以前「ペーパーレスって定着しないけど、それって紙が凄いからじゃない?」というエントリを書いた。まあそれ自体は漠然とした直観で正しいかどうかは判らないのだが、その時にコメント欄で出た「どうして印刷するとモニタ上で気付かなかった誤字が一瞬で見つかったりするのだろう」については自分の中でも答えを出せずにいた。
それが、最近あんまり関係ない文脈で読んだエントリで


過去に筆者が感じたパラダイムシフトは、DVIの登場によるモニタ結線のデジタル化であった。それまでのアナログ結線のときは、液晶モニタであっても文字がにじんで、少し太って見えたものだった。今にして思えば天然アンチエイリアスと言えないこともない。だがDVI接続に変えたとたん、同じフォントでも文字が細くなって隙間が大きく空いたようになり、ずいぶん変わったと感じたものだ。
という話があって、これを読んでひとつひらめいた。いまでもまだモニタの解像度ってのは紙に及んでない。それでも文字は問題なく視認できるし、意味を理解することは可能だ。でもモニタで表示されてる字は所謂「うそ字」が結構あるように、実際の字とは離れた形のものも少なくない。それを認識するにあたって、人の脳はかなり字の識別に係る閾値を下げているんじゃないかと思う。これがモニタで誤字を見つけられない理由の全てとは思わないが、少なくとも関わりはあるんじゃないだろうか。
となれば、フォントサイズを大きくして実際の字に近い形で表示させるようにすれば、誤字を見つけやすくなる筈だ。ただ、校正の目的だけで読むのならそれでもいいのかも知れないのだけど、文章を書く上ではそれはそれで辛いところがある。一画面に入る文字数が少なくなり、全体を俯瞰できなくなるからだ。

最大の難点は、あまりに当然のことだが、文章に対して俯瞰不可なことだ。足元だけ照らして暗い中をずっとまっすぐには歩けないように、メールで投げたエントリをパソコンで見返すとなんじゃこりゃ、ということがよくある。
これは PHS で書く時の話なのでもっと極端な例だが、本質的には全く同じことだし、「足元だけ照らして暗い中をずっとまっすぐには歩けない」という喩えが秀逸なのでここに引用しておく。つまりそういうことなのだ。
頭の中で考えていることというのは、よほど明晰な頭脳の人でない限り、曲がりくねったり細かい枝分かれがちょこちょこあったり下手するとループしていたり、とにかく直線ではないものだ。それを文章にして相手に伝えるためには多少なりとも真直ぐであることが要求される。考えつくままに書いていればうんにょろれんと曲がってしまうのは自明のことで、それをわかりやすくするためには振り返ったり上から眺めたりしながら直さなければならない。
その俯瞰の作業において、おれは未だにパソコンの画面は狭いと思ってしまう。大抵の文はテキストエディタで書いているのだが、フォントサイズを 10 ポイント前後かつウインドウサイズを画面一杯近くに設定して、ようやくなんとかなるという印象だ。まあここら辺は個人差も当然あるところだろうけど、10 ポイントぐらいだとやっぱり文字自体が読みづらいのは否めないし、冒頭に書いた誤字を発見できない可能性も高くなるし。

このようなウインドウに対して長文を入力するのは、辛いものがある。なぜならば長文を書くということは、とりもなおさず自分で書いたものを何度も読み直して、推敲するということに他ならない。だが文章全体の見通しが利かない狭いウインドウで、しかも行間がぎっしり詰まっているのでは、とても長文を入力しようという気にはならない。
さっきの文には後半にこんなくだりもあった。ようするにこの記事の著者は紙というメディアのモニタに対する優位性を述べているに過ぎないように思う。個人的にはそれを直接ネットから長文が消えた理由としてしまうのは無理があるんじゃないかと。敷居が下がってきたから短い文書く人が増えてきて割合的に長文が減ったように見えるだけで、絶対量としてはそれほど減ってないんじゃないでしょうかね。