黄昏通信社跡地処分推進室

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悪霊の神々 (2-1)

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やれやれ。
何度目かわからない呟きが思わず口からこぼれて、僕は天を仰いだ。比較的明るい割には妙に低く見える、鈍い色の雲が一面に広がっている。風は殆どない。寒いほどではなかったが、足元の泥から不快な冷たさが長靴を透して浸み入ってくる。それでいて妙に湿気が濃い。蔓植物の発する独特の匂いと腐った泥の腐敗臭が入り混じり、じっと淀んでいる。
「代わろうか?」
少し離れた岩の上から、カインの声が飛んでくる。
「いや。まだ大丈夫」
僕は応じて、正面の“祠”に向き直った。
両手に持った大ヘラで足元の泥をかき出して、後方へ投げ飛ばす。泥は粘り気が強く嫌な匂いがしておまけに重い。それ以上に草の根が厄介だ。避けて掘ったり、無理矢理ヘラでちぎったり、時には鎌で切ったりする。作業は遅々として進まなかった。
湿気の所為か、すぐに汗がじっとりとにじんでくる。息をしてもあまり肺腑に空気が入って来ない感じだった。身体に毒なのは判っているが、ここまできて止められなかった。もう少し。早く片付けてしまいたい。
ムーンブルク城からほぼ真東へ二週間弱歩くと、ムーンザルツという町がある。そこも今回の魔物の襲撃に遭っていて、しかも未だに魔物たちが拠点にしていたために立ち寄ることは諦めざるを得なかったのだけど、そこそこ大きな町だ。
そこからさらに東へ二週間ほど歩いて来ただろうか、2本の川とその分流に囲まれた島のようなところにその祠は建っていた。まあ少なくとも、建っていたんだと思う。今は半分がぐずぐずの泥に沈み、残る半分はびっしりと蔓植物に絡まれていた。
建造されたのは 20 年ほど前だというから、この手のものとしてはかなり新しい。ムーンブルク大司教が、とある宝物を安置するためにわざわざこの地に建てさせたのだそうだ。城が落ちた今となってみれば先見の明があったと言えなくもないのかも知れないが、もう少しでいいから便利な場所に建てて欲しかったというのは正直なところだ。ついでに言えば、これほど地盤が柔らかいところへ立派な石の祠を立てた理由についてもご説明願いたい。
おそらくは川も氾濫しやすい土地柄なのだろう、わずか 20 年で祠は廃墟と化そうとしていた。さらにそこへこのたびの異変で勢いづいた毒草や魔虫がはびこり、もはや周囲一帯が毒の沼地と呼んで差し支えない状態になりつつあった。宝物がどうなったのか誰も知らない。きっと魔物か盗賊が持ち去ったに違いない。
……と、思ったのに、今僕はこうして必死に泥を掘っている。
びっしりへばりついた棘だらけの蔓をはがすだけで半日以上かかった。カインが買っていた鎌がなければそこで諦めていたかも知れなかった。ようやく扉らしきものを見つけ、今度はその前をひたすら掘り下げた。幸い祠はやや後ろに傾いて沈んでおり、扉は若干上を向いていた。それでも相当骨の折れる作業だった。
その上この辺りは魔物が少なくない。中でも蜥蜴蜻蛉はとびきり厄介で、思いもかけない速度で飛んできて魔法らしきもので攻撃してくる。今もカインがしているように、常に片方は見張りに立たなければならない。
それでも、なんとかここまで掘った。
「よいせっ」
最後の泥のかたまりを肩越しにうっちゃると、泥で真っ黒になった木の扉が完全に姿をあらわした。破れたり欠けたりしておらず、四角い形がまるまる残っている。
カインが見張りの岩から下りてきた。「やあ、もうそんなに掘ったのか」
「いや、すごく時間かかったと思うんだけど」
「僕だったらこの3倍はかかってるよ」
何故かカインは軽く胸を張って言い放ったが、扉を一目見て渋い表情になる。「……こりゃしっかりしてるねえ。しかも内開きときた」
言われて初めて意識したが、確かに蝶番が見当たらない。おそらくは中にまで泥が入っているだろうから、普通に扉が開くとはちょっと考えづらかった。
僕は試しに扉をこぶしで軽くたたいてみた。と、思ったよりずっと柔らかい。もう少し強く叩いてみる。それだけで少しきしむぐらいだ。見た目より傷んでいるのだろう。
「カイン、さがって」 足場を確かめる。
「え?」
「……せいっ!」
扉の上部めがけて右脚で横蹴りを放つと、木の板がはっきりたわむ手応えがあった。もう3回続けて蹴ると、早くも縦に割れ目が走り、僕はいけると確信した。果たして、5分も格闘すると扉の上半分には人が通れるぐらいの穴が開いていた。
カインは目を丸くして僕と扉の穴とを見比べている。
「……君の脚は一体なにでできてるんだ?」
「扉が腐ってただけだって。さあ、明かりを点けてくれよ」

苦手だというレミーラの呪文を、カインは3回唱えてやっと成功させた。それも綺麗にはかからなかったようで、ぼんやりとした光だったが、充分に内部を照らしてくれた。祠の中は案の定泥が溜まっていた。床からだと膝上ぐらいの深さのようで、想像していたよりははるかに浅い。
どうにか適当に足の置場を作って、扉にあけた穴を通って中に入ってみる。やはり湿っぽく、泥の匂いに少しかび臭さも混じっている。
ムーンブルク城で聞いた神官の声はなんと言っていたのだったか。
――あらゆるもののまことの姿を映し出す「ラーの鏡」。
――もう殆ど力は残されておらぬ筈。しかしロトの世よりムーンブルクに伝わる大切な宝物ゆえ、どうか安全なところに移してくだされ。
――ムーンザルツの東、四つの橋に囲まれたほこらに安置されています。
この期に及んでこのほこらじゃなかったらどうしよう、などという不安が頭をよぎったが、今は考えても仕方がない。とはいえ足下は緑がかった泥ばかりで、とても宝物の気配はない。とにかく掘ってみるしかないか。
また、掘るのか。
と、視野の隅に鈍い金属の輝きがちらりとひらめいた。僕は屈み込んで今光った辺りを手探りした。固くて平たい手ざわりのものが泥の下に埋もれているようだ。
「あった?」
戸口からカインが訊いてくる。
「いや、わからない。でもひょっとすると――」
その瞬間、ここ何日かですっかりお馴染みになった、唸るような音が微かに耳に届いた。「カイン!」
ほぼ同時にカインは身体を翻して僕の視界から外れた。飛んできた火球が扉のすぐ脇に当たって弾け飛ぶ。呻き声。蜥蜴蜻蛉の羽音が空気を震わせ、すぐに通り過ぎる。
油断した。カインなら大丈夫だと根拠なく思っていた。僕は即座に扉に駆け寄り、穴をくぐって外に飛び出した。剣を抜いて構えるが、蜥蜴蜻蛉の姿は見えない。
カインは戸口の左脇で腰を落とし、呪文の詠唱に入っていた。怪我のほどはわからなかった。上を向けて構えた左掌の少し上に、ほんの小さな光の玉がちらちらと輝いている。
蜥蜴蜻蛉は一撃離脱を得意にしている。先ほどの火の玉が当たったのは判っているだろうから、必ずどこかで旋回して戻ってくるはずだ。
カインはまだ口の中でぶつぶつ言っているが、呪文をつむぐ速度が少しずつ遅くなっていった。掌の中にあった光の玉は今や卵ほどの大きさとなり、はっきり炎の玉とわかる。
……引き伸ばそうとしているのか。
魔法が効果を発揮するためには、決まった順番で特定の心の動きを呼び起こすことが必要になる。それを素早く正確に行えれば魔法の効果の発現は早くなる。逆に言えば、特定の心の動きを保ち続けられれば、効果の発動を遅らせることができる。のだ、そうだ。
だが炎の玉は少しずつ小さくなりはじめていた。
カインは諦めて、左手を振って炎の玉を投げ捨てると、すぐに再び呪文を唱え始めた。先ほどとは明らかに違う呪文で、詠唱も速い。
右後方から羽音が聞こえてきた。
羽音は真右を通って右前方に回りこむ。そこで視野に入った。ほぼ全速力で飛んでくる。半円を描くように僕たちの正面から襲ってくる心算だろう。僕は剣をわずかに握りなおした。カインはまだ呪文を唱えている。間に合うか?
素直な弧を描いて蜥蜴蜻蛉は向かってきた。カインを狙う心算らしい。僕が前に出るべきか、と一瞬思ったが間に合うはずもない。カインを信じるしかない。
「ギラ」
カインの魔法が完成した。それと同時に蜥蜴蜻蛉の向かって左の翅がわずかに上がり、軌道が僕の方に向く。炎の玉がカインの掌から飛んで行く。驚くべきことに、火球は蜥蜴蜻蛉の軌道の変化を読んだかのようにやや右に向けて放たれており、まともに命中した。
当たった時には僕も剣を振りおろし始めている。相手は火球を受けてひるんでいる上に、もはや止まることもままならない。懸命に左に回って逃れようとするがもう遅かった。真っ二つにするほどの手応えがあって、蜥蜴蜻蛉はそのまま地面に激突した。確かめるまでもなく絶命していた。
「…ふう」
他に気配はなかったが、一応四方を見渡す。カインも同じことをしていて、ふたりできょろきょろする羽目になった。魔物の影はなかった。

「大丈夫か?」 僕は訊いた。
先ほどまで右側に立っていたから判らなかったのだが、カインの左の頬から首にかけて火傷と思しき傷が広がっていた。最初の火球が当たっていたのだろう。
「かすっただけだよ」
そう言いながらもあからさまに顔をしかめている。「……って思ってたけど、結構痛いね」
「魔法は」
「ちょっと魔力が心もとないんだ」 苦笑い。「でも、とにかく僕は大丈夫だよ。ローラン、さっきのが鏡だったかどうか確かめてみてよ。もし本当にそうなら、もうこんなところには居なくて済むんだ」
明らかにあまり大丈夫そうではなかったが、こうなると聞かないことはここ半年ほどの同行でよくわかっていた。さっさと済ませてしまおう。
僕はさらに扉の穴を蹴り広げて、簡単にまたいで入れる高さまで穴のふちを下げた。カインを先に入れて、僕も後から扉を抜ける。ふたり入るともう狭苦しかった。
並んで屈みこみ、協力して泥をどける。すぐに先ほどの平たい手ざわりのものは相当な大きさだということがわかった。どうやら間違いなさそうだった。よく無事だったものだ。祠が魔物を近づけなかったのだろうか。魔物が多くて盗賊が近づけなかったのだろうか。それとも単に誰も泥に半分沈んだ祠に宝物があるとは思わなかったのだろうか。どれもありそうなことだった。
とうとう、両手で抱えるほどもある鏡、らしきものが掘り出された。
僕はそれを眼前に掲げてみた。重みだけはずっしりと両腕に伝わってくるが、泥で真黒に汚れ、まことの姿どころか何かを映し出すことすら叶わない有様だった。残念ながら、宝物らしい雰囲気は全くない。
「本当にあったんだね」
カインが感慨深げに言う。声には抑え切れない興奮もにじんでいた。ムーンペタを出てから二月近く、この宝物の話を聞いてからだけでも一月経つのだから、もちろんそれなりには感慨もあるが、でもこんな汚れた鏡一枚に何ができるというのだろう。
貸して、とカインが言い、僕は我ながら少し無造作に鏡を手渡した。
「重いね」
カインは胸の前で鏡を支えて、呟くように言う。「……まだ力が残されてるといいんだけど」
「使うあてがあるのか?」 僕は訊いていた。
「あるよ。」 カインはむしろ不思議そうに僕を見返した。「王女を呪いから解放しなきゃいけない」
生きてるのか。
僕は続けて訊いてしまった。居場所はわかるのか。
カインは微笑を浮かべて応じた。
「君だって会ったじゃないか」
「えっ、」
僕はムーンペタでの出来事を思い起こす。呪いをかけられた王女に、既に会っている? もしかして、あの時の。
ムーンペタへ戻ろう」
カインはきっぱりと言った。「キメラの翼は、ここが使い時に違いない」