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『時空の支配者』 ルーディ・ラッカー著/黒丸尚訳 ハヤカワ文庫SF,1995 ISBN:9784150110925

ラッカー十番勝負その5。
ご存知の方はご存知だろうが、この作品がラッカーの SF 長編としては初めて邦訳された。1987 年のことだ。当時は新潮文庫がまだ SF を出していて、新潮社で編集者をしていた大森望が担当した本であることも知られている。大森本人によると「全然売れなかった」のだそうで、ほどなく絶版になっている。表紙と挿画を吾妻ひでおが手がけていて、今見ると 70 年代ぐらいの本に見える。
さておき、この作品については比較的最近再読して感想も書いたので飛ばそうかとも思ったのだが、時系列で読んでいれば発見があるかとも考えてまた読むことにした。
主人公はジョーゼフ・フレッチャー。今作は transreal 作品群ではないので、直接的なラッカーの分身ではないはずなのだが、やはりそういう側面もあるようだ。主人公の相棒はマッド・サイエンティストのハリイ・ガーバーで、ふたりまとめて伝統的な SF では昔からおなじみの迷コンビ、というところらしい。
プログラマーとして冴えない毎日を送るフレッチャーのもとに、ある日突然小型のハリイが現れる。ついに時空を超越する装置を開発したので、それを使って未来から来たのだという。どうして小さいのかって、「すべては縮んでいる」からだ。不確定性原理の作用する範囲が使用者の脳をすっぽり覆い、世界は思った通りの姿になる。まあ原理はともかく、ほんとに動くんだから、あとはこれを使ってなにをやってやろうか……。
というような話。古典的なヨタ話「プランク長を1メートルに」と、童話なんかでおなじみの「3つの願い」シチュエーションを組み合わせると、ラッカー的にはこうなる。曲がりなりにも物語の軸が定まっているため、毎度ながらのどたばたでもちゃんと読める話になっている。フレッチャーとガーバーの無軌道ぶり、どんどん混迷していく状況、無理矢理な展開にあっけない結末、というのはある意味いつも通りではあるのだけど。
あちこちに散りばめられたパロディも好きな人には楽しめるかも知れない。上記の「すべては縮んでいる」もそうだし(もっともこれは SF の話ではないのだが…)「過去に物質を送ったら同じだけの質量を同じだけ未来に送らなければならない」なんてネタもある。意味もなく出てくるロボットや、未来風交通機関みたいなガジェットも、ラッカーの他の作品にはあまり見られないサービスといえよう。考えてみると前作でもこんな感想を書いたので、ラッカーなりに読者サービスみたいなことは考えてるのかもね。
前作『セックス・スフィア』の主人公アルウィン・ビターが再び登場することにも触れておこう。出番はさほど多くないが、意外なほど重要な役回りを果たしている。
これまでの作品と比べると大仰なテーマは若干陰に退いている。というか、あまりそれらしいものはない。「物事はどうしてそうあるのか」という問いは登場するのだけど、あまり真面目に考察する気はなさそうだし。代わりに暴走気味のサービスが展開される快作で、ラッカーを紹介するのにはふさわしい作品であったのではないだろうか。それでも売れなかったというのも、いかにもラッカーらしい、と言ってしまっては流石に失礼かも知れないけど。

ところで、以前ちょっと書いた『時空の支配者』映画化のうわさだけど、


C: I did want to ask you about MASTER OF SPACE AND TIME. Is that still a go?
MG: No, no, I’m not sure what happened to this one.
C: So, is MASTER OF SPACE AND TIME not even a part of your life anymore?
MG: No.
案の定ぽしゃっていたのでした。残念。