黄昏通信社跡地処分推進室

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ЛЕГЕНДАРНЫЙ ДРАКОН -- Epilogue "We will be back !!"

『アリョール』のエンディングねたばれを含むので、気にする方は読まないでください。

「あーあ」
彼女は舳側の舟底に仰向けになったまま、右脚を高々と持ち上げた。編み上げの安全靴には、脛の内側辺りに引き裂いたような傷が残っている。今まで気がつかなかった。たぶん、機内で撃ち合ったときに銃弾がかすめたのだ。今更ながら掌に冷たい汗がにじむ。
「こんなに立派な紐があったのになあ」
ぼくはそれには応じず、黙ってオールを動かす。一定のペースで、水面の下の水を捉え、ぼくから見て前のほうへ運ぶ。何年も舟など漕いでいなかったが、身体は自然に動く。
空には絵の具を流したような雲がべったりと広がって陽を遮っている。もう夕方と言っていい時間になっている。
湖は比較的幅が狭く、ぼくたちが進む方向に沿って長い。風は殆どなく、鏡のような水面が映す灰色の空を、ボートの航跡だけが乱している。視界に入る両岸には延々と鬱蒼とした木々が立ち並び、人の姿はないが濃密な森の気配がある。時折鳥の鳴き声や羽音がした。
未練がましく挙げていた脚を、彼女がわりと無造作に下ろした。重い安全靴が舟底に当たり、船体が大きくかしぐ。
「ああ、ごめん」
「大丈夫、じっとしてて」
流石にこの程度の揺れなら慌てなければ浸水するようなことはない。ぼくは櫂を止め、しばらく舟が惰性で進むに任せた。左右にふらふらと傾きながら、湖面を滑っていく。
湖上のひんやりとした空気がかすかに首筋を撫でていき、いささか熱を持った身体に心地よい。
「そろそろ国境越えたかな」
彼女が言った。
「どうだろうね。もう追手も来ないと思うけど」
ぼくは空を見上げた。どんよりと重い雲は、しかし西の方には切れ目もあるようだ。直接夕陽は見えないが、低い位置から差す光が雲の下面をまだらに照らしている。
ふと見ると、彼女も仰向けのまま空を見上げていた。
大きな影が、一瞬上空を横切った気がした。
天を覆わんばかりの飛行機の姿が脳裡に浮かぶ。こんなところにある筈がないのに。
“アリョール”に積まれていた爆弾を、ぼくは適切に解体することができなかった。紐が一本あればなんとかなったのだけど。代わりに折角の冠を置いてくる羽目になってしまった。
――たかが一生遊んで暮らせるようなはした金のために、60 人もの人を殺せるか。
当たり前のように彼女は言った。ぼくははっとして、はっとした自分にがっかりした。
今頃はアリョールは空港に着いているだろう。夕闇の中に翼を広げ、停泊場に大きな影を投げかけていることだろう。給油を受け、大勢の整備士たちを、召使いのようにしたがえていることだろう。
「また一文無しだ」
彼女がつぶやくように言った。「……いろいろ巻き込んで、ごめんな」
ぼくは思わずあらためて彼女の顔を見てしまった。彼女は表情らしい表情は浮かべておらず、ただ顔の脇にたたんだ腕を置いて、じっとはるか頭上に広がる暗くなりかけた空を見つめていた。茶色の瞳が空を映してくすんだ樹皮のような色になっている。
なんと言ったらよいのかわからなかったが、とにかく切り出した。
「一年前は、」
「ぼくたちはやっぱり一文無しだったし、その上ふたりとも刑務所に居た。きみが居なければこんなことにはなっていなかったと思うけど、でもぼくの人生が悪くなったとはまったく思ってないんだ。」
「……結構この半年、楽しかったよ。」
そんなようなことを言った。
それからぼくは、またボートを漕ぎ始めた。オールの先端が水に入る微かな音がたち、舟がすうっと水面を滑り始める。隙間なく並んだ両岸の木が、背中から前の方へ進んでいく。
「はは、」
彼女は腹筋だけで身体を起こした。両膝を浅く立てた恰好で、脚の上に両腕を軽く乗せて、ぼくの顔をのぞきこむように見つめると、屈託のない笑顔を浮かべた。「実はあたしも、結構楽しかった」
「そりゃよかった」
ぼくは表情を変えないように努めながら、櫂を動かした。
彼女は少しの間ぼくの顔を見ていたが、やがてにやりと口の端を吊り上げると、ひとり小さくうなずいた。
「……しかし、どうするかな、これから」
彼女が呟いた。
「金も無い、喰いものも無い、おたずね者で、国外逃亡中」 ぼくがあとを引き取って続ける。
「……また、銀行強盗でもするかな」
視線を岸の方にやりながら、彼女はぼそっと言った。
「つきあうよ」
言った瞬間、空がふっと明るくなった。沈む直前の太陽が投げかけた光が、角度の拍子か、ちょうど真上の雲に当たる格好になっていた。思わず首を上に向けると、ほどなく日は本当に沈み、明るい部分は急激に東から影に呑み込まれていった。
ぼくは正面に向き直り、オールを握り直して、少しピッチを上げて舟を漕ぎ続けた。