黄昏通信社跡地処分推進室

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今日の雑談:お題「バーナード・バトラーが抜けた後のスウェードが好きだと主張するときと嶺川貴子が抜けた後のL⇔Rが好きだと主張するときに感じる気恥ずかしさが似ている件について」

  • これツイッターで書いてその時はブログ向きだと思ったんだけど今見るとそうでもないというか、もうタイトルが殆ど全てであり、つまりツイッターで書いた内容と同じであるから今更何を書くのだ。一応補足しておくと、どちらのバンドにおいてもそのメンバーが抜けた時点というのが比較的大きなターニングポイントで、端的に言うとその後はかなりポップになった。むろんバトラーはスウェードにおいてサウンドメーカーであったのに対し嶺川はそうではないのだが、振り返ってみてL⇔Rの 4th アルバム以降がどポップ路線に舵を切っているのは間違いない。
  • ポップになるということは、ごく大雑把に言えば、受け容れられやすくなるということと同時に個性を失うということでもある。言い換えれば代替可能なものになるということで、それを好きだというのはちょっと勇気が要る。「おまえほんとは{スウェード/L⇔R}じゃなくてもいいんじゃないの」とかコアなファンに思われるんじゃないか、みたいな被害妄想は少なくともおれの中にはあった。それはもうずっと前から。
  • でも、何回聞いてもおれはやっぱりバーナードが去ったあとのスウェードの方が好きだし、4枚目以降のL⇔Rの開き直ったようなポップさが大好きなのだ。もうそれはおそらく今後も変わりようがないことで、自分の凡庸なセンスも含めてそれをはっきり認める方がずっと誠実な態度だな、とようやく最近思えるようになってきた。『Coming Up』は最高のアルバムだし、『Let me Roll it』は超いかしてる。
  • ところでそれはそれとして、『Doubt』はどポップ路線のそれまで2枚のアルバムとはまた違う方向に変化が見られていて、これまたかなりいいアルバムだったりする。黒沢健一の落書きみたいなひどいジャケットのおかげで購買意欲がまったくそそられない CD だが、L⇔R好きだったけど聞いてない、なんて人が居たら買って損はしないと思う。あの後どういう方向へ進むのか実に楽しみだっただけに、あのアルバムを最後に活動休止になってしまったのは残念でならない。