黄昏通信社跡地処分推進室

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少し前だけど『ねじまき少女』読了。面白かった。帯ではチャンとかイーガンとかと並べられてるけど全然的外れで、売れ線と並べときゃ売れるだろ的安易な記載には正直がっかりする。誰かが書いていたけど、引き合いに出すべきは断然ニューロマンサーだよ。ディストピア的近未来、ごちゃごちゃしたディテイル、過剰な情報と複数主人公の視点が絡み合う語り。ニューロマンサーと比べると、ねじまき少女で描かれている近未来の方がずっと泥臭くて暑苦しくて、そして今のおれにとってはずっとリアルな地続きに感じられる。そこに SF ならではのわくわく感があるし、一方で「うへえ」と辟易するような感じもあって、それが実によかった。いま書かれる地続きの未来であれば、それはある程度うへえと思うようなものになるのは当然だし、それに向き合ってディテイルを積み上げている作品を読むのはとても楽しかった。(もちろんフィクションなんだからそうでない未来を書くのは自由だしそちらにはそちらの楽しみがあるわけだが。)
個人的には温暖化にはそれほどの現実味を感じないのだけど、それでも迫り来る海面と焼き焦がすような陽光はこの作品で描かれる世界の空気そのもののベースなのでそれは外せないだろうなという理解はある。人間の制御を完全に離れた遺伝子操作生物、いたちごっこで常に先まわりしつづける病気たち、それでも利潤を追求し続ける先進国の企業。これらは現実の世界で起きてることが少しずつ極端になった形であって、だからこそうへえと思うわけだけど、その極端さのアイデアがいちいち上手い。
チェシャ猫は「無害な趣味の筈だったもの」が生態系に致命的な影響を及ぼしてしまう、という構図だが、ぱっと思い浮かぶのは歴史上幾度となく繰り返された「ある生物の駆除のために持ち込まれた別の生物が繁殖することで生態系が崩れる」というもの(日本で最も著名な例はマングース)。善意が仇となることよりも単なる趣味が仇になる方がもちろん質が悪いし、現在においてはさもありなむという感じもする。
病気たちは植物界と動物界をまたいで感染するようになっているようだ。現在は所謂鳥インフルエンザ豚インフルエンザのように動物の種類をまたいで感染することまではあるが、動植物をまたぐ例は多分ない筈で、そこにも極端な未来と悲観が投影されている。
世界の魅力に比べるとストーリーにはやや難があった感はある。ひとことで言うとアンダーソンがしょぼすぎるのだ。ある程度わざとなんだとは思うんだけど、それでも感情移入しやすいポジションの人物ではあって、冒頭のンガウのシーンからその糸を手繰ってタイ王国が生き延びてきた謎に迫っていく、というのは申し分ない導入であったと思うだけに、結局「なんだったんだよ……」としかならないのは勿体無い。ついでに言えば新型ぜんまいもねじまきの国もみんななんだったんだよではあり、ガジェットばら撒き型の SF ってこんなもんなのかも知れないけど、もう少ししっかりした縦糸があればもっとよかったのにな、という。