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『ミシンと日本の近代』 アンドルー・ゴードン著/大原かおり訳 みすず書房,2013

20 世紀初頭から 1960 年代までの、ミシンと日本との関わりを書いた本。山形浩生がべた褒めしていたのと、個人的にミシンというものに縁を感じるので読んでみた。
日本にミシンを初めて持ち込んだのはどうやらジョン万次郎らしいのだが、本格的な普及は 1900 年頃から日本に店舗を持ったシンガーの進出を待たなければならなかった。シンガーは多数の販売員と技術指導を行う「女教師」を抱えて戸別訪問を行い、無料試用を経て月賦販売に持ち込むという方法で世界中でミシンを売ってきて、その手法を日本でも成功させた。既存のミシン(主にドイツ製のものが多かったらしい)はどんなミシンでも下取りして部品取りすらさせないために完膚なきまで叩き壊したというエピソードは面白い。ある意味でもっとも文化帝国主義的エピソードだと思う。
しかし当初は順調だったシンガーもある水準以上は普及率を伸ばせなくなっていく。それは和服の壁だった。当時のミシンは和服を縫うのには全く適しておらず、シンガーも和服にアジャストしようとした形跡はほとんど見られないらしい。
シンガーの方法は基本的に高コストで販売員には低賃金が強いられ、1930 年代には全国規模の労働争議が起こる。シンガーは一歩も引かずに事実上争議を押さえきるが、争いは長引き、それと前後する時期に日本では洋服が浸透しはじめ、シンガーの下請けとして部品を作っていたような国内メーカーがついに国産ミシンを作り始める。それは文字通りシンガーミシンのクローンだったが、価格と販売法のアレンジによって急速にシェアを拡大していく。やがて太平洋戦争が始まるが、実際にはその前にシンガーは日本撤退を余儀なくされていた。
男性には既に少しずつ洋装がひろまりつつあったようだが、女性にもモンペがその簡便さと効率性のために急速に普及してしまうと、戦後の物資欠乏期を過ぎてからも多くの日本人はもはや和服を日常着にしようとは思わなかった。その変化の時期と経済復興、そして女性が洋裁技術を身につけることが様々な角度から推奨されていた風潮に乗って、日本には国産のミシンメーカーがまさに林立した。この頃シンガーもようやく日本への再上陸を果たし、ミシンどころか部品と部品番号すら丸コピーして使っていた日本のメーカーに対して訴訟を起こしたり、国内のメーカーと提携して日本の工場での生産を本格的に開始したりしたが、日本のメーカーとの価格競争に勝てず(そして低機能低価格路線にシフトすることを最後まで潔しとせず)ある程度以上のシェアを持つことはできなかった。
1950 年代後半にはミシンは日本での普及のピークを迎え、60 年代いっぱいぐらいまで一般の新聞全国紙に洋裁の記事が毎週型紙付きで載るような状況は続いていたらしいのだが、70 年代に入る辺りから急速に既製服に押されはじめる。というあたりでこの本の記述は終わる。


面白かったのでちょくちょくこんなことが書いてあったよと妻に報告しながら読み進めていたのだが、妻がそれを聞いて教えてくれたことで興味深かったことが2点。ひとつが初期シンガーの販売方法で「販売員と女教師がいて体験試用させて云々」というくだりに妻は「今とおんなじだね」と言っていた。戸別訪問や月賦販売は無くなっているがミシンというものを買わせる上で実演や指導は未だに必要なコストだと見做されているらしい(現在の「教師」は販売店の店頭に居る)。これはミシンという機械の性質の一部を示している事実のように思える。
もうひとつが、戦後シンガーが日本に戻ってきてみたら日本のメーカーが本体どころか部品と部品番号までシンガーの丸コピで作っていたというくだりを話したら、「そういえば今でも国内メーカーがシンガーのミシンと同じ機種名のミシンを作っていたりする」のだという。たぶん互換性もあるのだそうで、ちょっともう少し詳しく知りたいところではある。
とにかくとても面白かった。おれはとにかく社会や歴史を俯瞰して眺めるのが苦手で、ほとんどできないと言ってもよくて*1、だからこの本の面白さを本当に理解したとは多分ほど遠い読み方しかできていないと思う。それにもかかわらず面白かった。


冒頭で書いたミシンとの縁は、まあ大したことはないといえばないし、あるといえばある。妻が洋裁を(まあある種の)趣味としていて、我が家にはミシンがあるということがひとつ*2。もうひとつは、義母がこの本にもまさに登場するような家内縫製職人で、今なお仕事を請け負って洋服を縫っていて、そのための大きな、年季の入った、素人目には殆ど博物館もののような足踏みミシンが義実家にあるということ。息子はその古くて大仰ででも現役で働いているらしい機会に興味津々で、一時期は見るたびに触りたがっていた。なんとなくそのようなことが、実際のところ触りもしないおれに、少しだけミシンに対する親近感を抱かせている。

*1:そう考えるとやっぱ文系向いてなかったなと思う

*2:これがシンガー製だったりすると面白いのだが、残念ながらそんなうまい話はなく、エレクトロラックス社製らしい。