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『脳を機械につないでみたら BMIから見えてきた』 櫻井芳雄 岩波現代全書,2013 ISBN:9784000291088

先日はてブホッテントリに上がってた
SFをもっと楽しむための科学ノンフィクションはこれだ! - 基本読書
で紹介されていた本。空想科学好きとしては科学側も追ってるふりぐらいはしなくちゃなるまい、というところ。
BMI は Brain-Machine Interface の略で、タイトルの通り脳を機械につなぐ技術のことだ。この本の冒頭ではまずいきなり人間の BMI が紹介される。後天的な四肢障害を持つ人の脳に電極をつなぎ、画面に円を描かせる実験だ。ここの描写は生々しい。おそらくもっともよく撮れた映像を選んだであろうに、と作者は書く。“円”はひどくでこぼこで、被験者の頭皮には一般的に四肢麻痺の患者がストレスを感じているシグナルだとされている大粒の汗が浮かんでいたという。


サルやラットでは BMI の可能性はある程度実証されている。たとえば、ラットの脳に電極をつないで、レバーを下げるとえさをもらえるシステムを学習させる。レバーを下げるときには脳に特定の活動が見られるので、その活動が検出できたらえさをもらえるようにする。しかるのちに、レバーとえさのリンクを切る。すると、ラットはレバーを動かさずにその脳の活動を起こす(そしてえさをせしめる)ようになる。
サルでは Brain-Muscle Interface というものも研究されている。神経ブロックしたサル自身の腕をサルの脳からの信号で動かす、というもので、一見転倒的に見える設定だが、実用的には怪我や病気などで麻痺した腕や脚を動かせるようにするというのがぱっと思い浮かぶ。


さてではその脳の信号というのはどういうものなのか。これが BMI のひとつの鍵なのだが、ここが結構面白い。脳というのは部分によって機能が分かれていて、たとえば腕を動かす時には脳のこの辺が働いて、ものを噛む時はこの辺りが働くのだ……というようなイメージを持っている人は多いと思うのだけど、そのような考え方を機能局在説という。これは確かにある程度事実なのだが、しかしこれにとらわれると本当のところを見失う、というのが作者の一貫した主張だ。
サルが腕を動かす時の脳の働きをしらべると、脳の実に多くの部分で信号が発せられていることがわかる。それは「分散的、集団的、平均的、確率的」であり、ある動作を意図した時に特定の部分が必ずこう働くということはおそらく殆ど言えない一方で、ある程度の数のニューロンの働きを同時にモニターしていると概ね動きに対応した信号は観察できて、そのニューロンは必ずしも運動に関わるとされている脳の部位のものでなくてもかなり正確に分析できるらしい。つまり脳はかなり冗長性と分散性の高い作りになっていて、機能と部位を対応させるには限界があるということだ。


というのは作者の主張なのだが、どうも脳科学者の間でもこの辺りは共通見解ということにはなってないっぽい。むしろ、作者が書くには、特定の脳の部位、ひどい場合は単体の神経細胞の働きを調べて脳の働きを知ろうとするような実験の方がまだまだ多いのだという。そのような状況に作者が感じているいらだちはこの本の各所でほんのり伝わってきた(それは不快な形ではなく、これでもかなり抑えて書いているんだろうな、という印象を受ける)。おれには何が正しいのか判断できる知識はないが、作者の書く「分散的、集団的、平均的、確率的」という脳の働きの特徴は理に適っているし、納得のいくモデルだと感じる。


脳はかなり可塑性、柔軟性が高いことでも知られている。脳の一部に不可逆的な損傷を負った人が、その部分が担っていた身体機能を一時的に失いながら、その機能をのちに取り戻すことがある。これは脳の別の部分がその機能をあらためて担い直すからだ。そのように「回路を作り替える」ことが、脳にはある程度できるらしい。
マウスでは脳の視覚を担う部分と聴覚を担う部分について、眼や耳から脳への神経を切ったり繋ぎ換えたりすることで、本来視覚野である部分に聴覚を担わせるようなことすらできるらしい。また、特定の感覚を集中して味わわせることで、脳がその感覚を担う部分がだんだん大きくなっていくことも確かめられている。その感覚は1日に 30 分も与えれば充分で、それもそんなに日が経たないうちにどんどん変化するらしい。実は成熟した個体においてもニューロンの新生は行われているらしく、そのことが脳の可塑性と関係があるかも知れない。脳と身体の各部の関係というのは少なからず双方向で、フィードバックは脳の働きのためには不可欠であるようだ。


やや BMI からは逸れるが、脳の安静時や睡眠時の働きは殆どわかっていないという話も出ていた。もともと脳というものは深い侵襲を伴った実験が難しいうえに、働きをみるのもなんらかの動作をさせてその時の脳の血流や神経細胞の発する信号を分析する、という方法しかないため、何もしてない時がよくわからないらしい。
あとこれも多分脇道だけど、脳内物質の働きってのも作者によると殆どまったくわかっていないらしい。かなり多くの種類の物質が絡み合って働いていて、その相互作用も簡単に予測できるようなものではない。だから特定の物質にだけ着目した脳の薬が登場することには作者は危惧と不信感を抱いているようだった。


作者は最後に BMI の未来を少しだけ想像してみせる。が、関連する学問分野を列挙するだけで、これが生半可なことでないことがすぐにわかる。本文中で、同じ脳科学者の中ですらマウスを実験対象に使う人たちと猿を実験対象にする人たちで流儀が随分違うみたいな話が出てくるのだけど、そんな状況なのにこれだけ多くの分野の研究者たちが手を組まなければならないのか……と考えるとそれだけでため息をつきたくなる。それでも BMI というのは根本的になにかわくわくさせるものがある分野だと感じる。今後も発展して欲しい。