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『星新一 一〇〇一話をつくった人』(上・下) 最相葉月 新潮文庫,2010 上巻 ISBN:9784101482255 /下巻 ISBN:9784101482262

言わずと知れたショートショートの大家の伝記。
上巻は星製薬の御曹司としての生誕から、父の死によって会社を継ぎ、会社を失って作家になる辺りまで。後半は“第一世代”SF 作家としての華々しい活躍から、ショートショート 1001 話を成し遂げるまで。


それなりに興味深い話が全体に満遍なく収められているが、淡々とした文章で書かれていることもあって、この辺がすごく面白かった、という起伏には乏しい。個人的には、本人はずっと文学的な評価を欲していたというところになんとも言えない切なさのようなものは感じた。希有な才能であることは間違いないし、いくつか傑作も残しているけれど、文学的な評価とは無縁の方向の才能だったことも多分確かだ。*1
それだけに日本SF作家クラブ星新一に何の賞も与えていないというのがまた悲しい。実際には晩年になって名誉星雲賞をという話はあったらしいのだが本人が辞退してしまったのだそうだ。もちろん授賞されていたとしてそれが本人を満足させたとは思えないのだけど、それにしても第一世代のトップランナーと自他ともに認めていた人物になにもないというのは寂しい話ではある。


作家としての後半生は 1001 編という数字だけを目指して書いていたようだ。ピークは過ぎ、マンネリにおびえ、体力は落ち、それでも書き続けて辿り着いた 1001 編は、しかし到達しても星に何も与えてくれなかった。その後は目立った創作活動もないまま、病に倒れ 67 歳の若さでこの世を去る。
有名な話だが、星新一は 1001 編目を特定の雑誌に載せることをよしとせず、同時に9編の別々のショートショートを同時期に発売される9誌に送り、その全てを 1001 編目ということにした。だが、作者が執筆に際してその9編を担当していた9人の編集者に取材したところ、殆ど全員がその時受け取った作品を憶えていなかったのだという。作品を読んで初めて思い出す人も居れば、読んでもなお困惑顔の人すら居たそうだ。星新一はたぶんそういう作家だった。すごく好きだった時期もあるし、面白いと思って読んだ筈なのに、過ぎ去れば殆どなにも残っていない、ただ通り過ぎて行ってしまう。


星は晩年に至るまで自分の作品の細かい表現を手直し続けていたらしい。「ダイヤルをまわす」を「電話をかける」に変えるような作業を、重版がかかるたび、ぐらいの頻度で行っていたのだそうだ。シーシュポスとしかたとえようがないが、それでもやらずにいられなかったのだろう。望む評価が得られなかったのなら、せめて少しでも長く読まれる作品であって欲しいと思ったのか。


連日の改訂作業で、新一は信じられなくなってしまったのかもしれない。星新一の世界では、電話はダイヤルを回すもの、時計はコチコチと鳴るもの、と想像して楽しんでくれる読者が、どんな未来にも、どんな見知らぬ国にも存在するということを。小道具を書き換えることはできても、考え方までは書き直せない。永遠の命を吹き込むといえば聞こえはいいが、現実の改訂作業はやがて底なし沼のようになっていた。
(文庫版下巻本文 370 頁)
そんなわけで、読んだ後にはなにかぼんやりと寂しい感じが残った。そうは言っても彼の人生そのものが寂しいものであったわけではないし、なにも残せなかったものでもない。むしろ水準以上に幸せな人生であったろう。それでも、まごうかたなき巨人の足跡が思っていた以上に薄く、浅いことには嘆息せざるを得ないのだ。

*1:余談だがこの辺りコーネル・ウールリッチウィリアム・アイリッシュ)と通じるところがあると思う。ウールリッチも文学的な評価を渇望していたらしいが、それとはかけはなれた方向のある種の天才だった。