黄昏通信社跡地処分推進室

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これも言い古されていることとは思うが、電報というのも実にしぶとくサヴァイヴしている媒体だと思う。やっていることは今となっては「壮大な無駄」としか言いようがないわけだが、その無駄を実に巧妙に付加価値にすり替えることに成功している。祝電にしても弔電にしても根付いている習慣というのは強く、中々「お祝いのメールが届いています」というわけにはいかない(となんとなく思い込まされている)。たまに電報を出す時など「あんまり安い奴じゃ失礼かな……」とか思ってしまう。いや金額で変わるのは NTT 様の儲けだけだから、と理性では思うのだが、中々そうは割り切れない。


とは書いてきたものの、ここまでの議論は電報をメッセージの伝達手段としてとらえた場合の話で、祝電弔電の本当の機能としては使者を立てることの代行サービス*1と考える方がずっと実態に即していると思う。実際に人が行くのもこれなら無駄ではなく必然だし、値段もむしろ安いし、全体的に合理的ですらある。


この辺り諸外国ではどうなってるんだろうなーってのはわりと本気で知りたくはある。それこそ AT&T 社なんて社名の一文字にまさにこのTが残っているわけで(まあ「トリニダード」かも知れんが)、機会があればおたくんとこの Telegraph は今はどうよ?みたいなのは聞いてみたい。

*1:もちろん使者を立てることもメッセージの伝達手段なわけだが、ここでは「使者を立てることそのもの」をより重要な意義だと考える。