黄昏通信社跡地処分推進室

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『ブラックアウト』(上・下)/『オール・クリア』(1・2) コニー・ウィリス

ブラックアウト(上) ISBN:9784150120207
ブラックアウト(下) ISBN:9784150120214
オール・クリア(上) ISBN:9784150120382
オール・クリア(下) ISBN:9784150120399
読了したので感想。ちなみに自分が読んだのはブラックアウトがハヤカワ SF 文庫版、オール・クリアが新ハヤカワ SF シリーズ版、なので上下と12という表現になっているが、文庫ではそれぞれ上下に統一されている。また、上の ISBN は全部文庫版を書いておいた。
オックスフォード大学史学部シリーズの長編三作目、になるのかな。実は一作目『ドゥームズデイ・ブック』は読んだけど第二作『犬は勘定に入れません』を読んでいないので、以下の感想はそこを踏まえて読んでください。
このシリーズではタイムトラベルが実現していて、オックスフォード大学史学部ではその技術を利用して史学生が過去に赴き、現実に歴史を体験してくるという実習が行われている。ただし制約は大きく、史学生たちは現在から過去へは能動的に行けても、過去から現在へは能動的には戻って来られず、あらかじめ決めておいた時間に決めておいた場所に赴いて「回収」してもらわなければならない。とはいうものの、現在から見れば回収に行く時点は任意に決められるのだから、本来であればトラブルがあってもその直後の時点に回収に行ける……はずなのに、というのが基本的なプロット。
主要な登場人物は史学生のポリー、メロピー、マイクルの三人で、それぞれが第二次世界大戦中のイギリスに赴き、戦時下の人々を、あるいは英雄を観察しにいく。灯火管制(ブラック・アウト)下のロンドンでデパートの売り子として働くポリー、郊外の屋敷でメイドとして働きながら疎開してきたビニーとアルフのホドビン姉弟に翻弄されるメロピー、そしてダンケルク撤退を観察するためにアメリカ人記者になりすましていたのにまさにその撤退作戦に関わることになってしまうマイクル。三人はそれぞれ予定通りに回収されず、おたがいを頼って現代に戻ろうとあがき始める。三人がなんとか合流するところまでが『ブラック・アウト』。
カットバックをばりばりに使って、章ごとにそれぞれの視点で物語が進むのだが、ところどころ読んでいる側からはあれっと思う時点の章が差し挟まれる。どうやらそれも史学生の視点らしいということはわかるのだが、それがどう絡んでくるのかは少しずつ少しずつ見えてくる。また、タイムトラベルものの定番で、史学生たちは常に自分たちが過去に影響を及ぼしてしまっていないかを心配しているのだが、これがこの物語、というかウィリスの語りの上手いところで、読者をうまく誘導しながらその影響の帰趨を着地させてみせる。それ自体はものすごく斬新な着地ではないと思うのだけど、そこまでの持って行き方は本当に巧みで、ウィリスの真骨頂というほかない。
もうひとつ流石と思わされるのが過去の事物の描写で、ロンドンのデパート、共用の防空壕、屋敷やその周囲、海岸沿いの田舎の村、戦時下の病院、応急看護部隊、などなど登場する様々な舞台で、起こっていたことや起こり得たことを虚実織り交ぜながらいきいきと描いていく筆力は本当に素晴らしく、タイムトラベルものの醍醐味を存分に味わわせてくれる。それぞれに魅力的なあるいはめんどくさい人物を配置しているのもすごいところで、サー・ゴドフリーやホドビンきょうだいは言うに及ばず、コマンダーやダフニ、タルボットにフェアチャイルド、グッド牧師、脇役でも印象に残る人物は枚挙にいとまがない。なかなかここまでできる作家は居ないだろう。主人公たちはだいたいひどい目にあってばかりいるのだけど。
『オール・クリア』2巻の後半に至って、怒濤の勢いで伏線が回収されていく、この気持ちよさ。そしてその中で明らかになっていく登場人物の運命には心を動かされたし、なるほど、だからこその伏線なのだ、と思うと二重に感心する。作者は二部作を書き上げるのに8年かかったそうだがさもありなん、大森望氏が訳すのですらまる2年かかったとのことで、お疲れさまでしたというほかない。これだけの大作を面白く読めた気分は格別であった。『ブラックアウト』を贈ってくれた兄には感謝したい(とはいえ『ブラックアウト』だけ読み切った時点ではそこまでめちゃめちゃ面白いとは思わなかったのでこれはおれに見る目がなかった。あと万一同様のことを感じた人には『オール・クリア』までとりあえず一度は読むことをおすすめしたい)。
ひとつだけ引っかかったのは、戦争に勝つことが単純な勝利として描かれていることだ。もちろん当時の人たちにとってはそうであったのだろうし、それとは別に戦争そのものの悲惨さや不毛さは充分過ぎる以上描かれている。それでもなお、戦争が人の営みというよりはなにか「乗り越えるべき、打ち克つべきある種の災厄」として扱われていることにはわずかな違和感を覚えずにはいられなかった。それはおれの勘違いかも知れないし、“敗戦国”に生まれた人間の抱くバイアスかも知れない。そしてそれがこの物語にとって大きな瑕疵であるとも思われない、のだけれど。