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『四とそれ以上の国』 いしいしんじ 文藝春秋社,2008

ISBN:9784163277004
最初タイトルを見て何のことだかわからなかったのだが、妻から四国の話だと聞いて納得する。というわけである意味ではタイトルの通り、四国を舞台にした短編が五編収められている。短編といっても枚数はやや多く、また改行をしないでどんどん書き連ねていく文体なのでページ数以上に字数は多い。とは言っても中編というほどの長さではないと思う。
一応土地の名前は現実に準拠しているようだが、それ以外は非現実要素が小説内の理にかなり深く浸食していて、時代設定も一応現在らしく思える部分もあれば明らかにそうでない描写もあり、まあマジックリアリズムと呼ぶのが妥当ではあろう。ただ非現実度合いは作品によってばらつきがあり、ほとんどファンタジーと呼ぶべき作品もある。
圧巻は巻頭に収録された「塩」で、二男十女の十二人きょうだいの末妹として仁尾に生まれた主人公が、父親の死後に引き取られた高松の親戚の家で過ごす日々を描く。姉ふたり(+α)と共に居候することになった主人公は、当初は六女ミヨシの才覚で居場所を得るが、そのうちに七女ウキが女主人によって少しずつ「どうしようもなく」されはじめる。そこへ次兄のシオマツリがあらわれ、今年の仁尾の塩祭は二百年に一度のところ替えの年に当たっているので高松で行うと宣言する。盛大に執り行われた塩祭がクライマックスに達しようというとき、ついに異変が起きる。
とまああらすじらしいものを書いてみたがこれだけでは見事に意味をなさず、多分これだけ読んで面白そうだと思う人は居ないと思うが、しかしこの設定と物語が謎と緊迫感をはらんでいて実に面白いのだ。主人公だけが見ることのできる「筋」、ウキが女主人に夜な夜な連れて行かれる人形浄瑠璃、ミヨシが外の世界とつながる手段であるラジオ、それらがつながるようでまたつながらないようで、最後のカタストロフへ向かっていく。得体の知れないどろどろした目に見えない力が巧みに描かれていて、まったくあり得ないことなのにどこかで起きた話のように感じられた。
他に印象に残ったのは巡礼をモチーフにした「道」と藍染をモチーフにした「藍」。
前者「道」は自分にしか知覚できない道を延々と歩き続ける男の話で、時空を超えた事物と次々に交差しながら道は続く。男は自分の記憶もそもそも歩いている目的も定かではないが足を進め続ける。途中鯨を狩る場面があって、そこで鯨に捨てるところはないという話が出てくるのだが、こんなくだりがある。

そして何より鯨がすみずみまで用いられたのは人が読む本だった。海の生き物として、小説や寓話にじかに登場するだけでなく、まったく関係ない話にみえたときも、巨大な鯨あるいは目に見えない鯨の影が海面下をゆったりとすすむ気配は本のどこかに必ずたちこめ、表紙を閉じるたびごとに男は、鯨の出てこない小説はこの世に一冊もないのかもしれないと思った。鯨そのものが小説に似ているのかもしれない。

これはなんだか笑ってしまった。どさくさに紛れてめちゃくちゃ書いている。この論法だと鯨じゃなくてもなんでも言えてしまうじゃないか。
後者「藍」は藍の染料を作る藍師のもとから逃げ出してしまった藍(十六七の女の子ということになっている)と、それを追いかける藍師の話。なんでも藍が逃げてしまうとそのあとの藍は一見なんともないがそれで染めようとした布は薄汚いまだらになり誰も嗅いだことのない悪臭を放つという。とてもありそうにないのにディテールがそれらしいのが楽しい。この話でも現実と非現実がいともあっさりレイヤーになっていて、それが重ね合わされた形で描写される。最初の方で藍で染めた濃淡によって呼び分ける様々な色の名前が紹介されるのだけど、その名前が作中で幾度も色として比喩として登場するのがよかった。最後のシーンはこの短編だけでなくこの本全体のしめくくりとして美しく、全体としては説明しようとした端からすりぬけてしまうような話ばかりなのに、ああよかったなあという感じを受けた。