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『世界は一冊の本 definitive edition』 長田弘 みすず書房,2010 



『世界は一冊の本 definitive edition』 ISBN:9784622075387


我が家にはトイレ文庫というのがあって、まあそんな大層なもんじゃなくて単にトイレに常時何冊か本を置いているというだけのことなんだけど、詩集はトイレに置くのに実に向いている。たいていは一編が短いからすぐに読み終わるし、適当なところを開いてもどこからでも読めるし、しかし一度読んで終わりではなくて何度も読んで味わうべきものだ。この本もここ半年ぐらいトイレ文庫の常連になっている。
長田弘はまだ実家にいた頃新聞に載った詩を母が切り抜いてトイレに貼っていたのを見て初めて知った(どうもトイレから離れられないな)。大学生の頃であったと記憶している。まさにその詩「人生の短さとゆたかさ」が本書には収録されている。二行十三連の短い詩だけど一時期は全部暗唱できるほど好きだった。

食事の時間だから、今は食事をしよう。
私は私自身の人生の邪魔をしたくない。

今読んでもいいなと思う。


同じくらい好きになったのが冒頭の「誰でもない人」。禅問答みたいなやりとりと、途中に差し挟まれる

草原をわたってゆく風。
空の青。

という二行との対比がすごく鮮やかで息をのむほど。


「役者の死」は草野大悟を偲んで書かれたとのことだが、冒頭の連が素晴らしい。

板一枚 その下は奈落だ
その板を踏みつづけて 一生だ

これは演劇用語で舞台の床下部分のことを「奈落」という、ということを知らないとぴんと来ないかも知れないけれど(そしてこれってどれぐらい知られてることなんだろうか)、一見してやられたと思った。文字通りの意味でも、比喩としても、役者というのはまさにこういう稼業だ。奈落の、たった板一枚上で、生きつづける人のこと。


「十二人のスペイン人」は面白い趣向で、おれは題材にされている人たちの名前すら半分も知らなかったのだけど、文体を変えながらその人たちの生涯をごく短く切り取ってゆく手つきが鮮やかで、何人かの人についてはもう少し詳しく知りたいと思った。
ヒメネス」は最後の連がみごと。

ごらん。青空のほかに、神はない。
この世に足りないものなんて、何もないのだ。

「ミロ」は最初と最後の「美しいのは、」で対になっている部分がよい。
「ガルシア・ロルカ」は技法が素晴らしく素晴らしい。もしかすると詩では時々見られる描き方なのかも知れないけどおれは初見だった。ただ黒い文字が並んでいるだけなのになんと色鮮やかなことか。
「ドゥルティ」はどちらかというと人となりが気になった。

夜は 幼い娘のオムツを替え 料理をした
朝になれば 拳銃を手に 街へ出ていった

この連だけでどんな人なのだろうと思わせる。


あと、「五右衛門」という詩がとてもよかった。石川五右衛門を題材にした詩で、なにか講談のような雰囲気がある。

ぐらぐらぐらぐら ぐらぐらぐらぐら
絶景かな塵世の眺め 値千金
千日髷の大泥棒は言いのこして 息絶えた

なぜ石川五右衛門?とも思うのだけど、どこか切ない雰囲気があって読むとちょっと寂しくなる。まったく知らない、実在すらやや怪しまれている泥棒だというのに。


作者はあとがきでこう書いている。

わたしにとって、詩は賦である。生きられた人生の、書かれざる哲学を書くこと。賦は「対象に対して詩的表現をもってこれを描写し、はたらきかけるもので、そのことがまた、そのまま言霊的なはたらきを呼び起すという古代の言語観にもとづくものである。その表現の方法を賦といい、そのような表現方法による文辞を賦という」(白川静『字統』)。

そもそもこの『字統』の文章がいいじゃないか……と思うけれど(そして流石だ、と思いかけてから、自分が『字統』について殆ど何も知らないことに気付く)、“詩的表現をもってこれを描写し、はたらきかける”、詩人というひとたちは多かれ少なかれみなこのようにしているのだろう。その描写があまりに鮮やかなとき、働きかけられた対象は生きはじめて、読者の前に姿を現すのだろう。この本に収められている詩のいくつかは、確かにおれにとっては、賦の役割を果たしているように思われる。