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『クロックワーク・ロケット』 グレッグ・イーガン著/山岸真・中村融訳 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ,2015



『クロックワーク・ロケット』 ISBN:9784153350243


いろいろな本と並行して読んでいたので、ようやく読了。とはいえ二三週間前だったと思うけど。
イーガンの新作は、ついに物理法則そのものが現実世界とは違う世界を舞台に持ってきた。前作『白熱光』でも、我々の住む環境とはかけ離れた環境が舞台に選ばれていたわけだけど、それでもこの世界とは地続きだった。今作は違う。時間と空間の関係がこの世界とは根本的に異なるから、どう考えてもこの世界と地続きではあり得ない。主人公たちも人間とは少々かけ離れた生態や社会を持っている生物だ。つまりはこれこそが「本格異世界もの」であり、凡百の似非中世系剣と魔法ものなんぞと比べればよっぽどか「ファンタジー」である筈だと思う。


でもそうはなっていない。主人公のヤルダは科学者で、作中世界での新事実を次々に発見していく、あるいは発見の現場のごく近くにいる。作中世界での物理法則は堅固に構築されていて(著者によるとそこまででもないらしいが)、ヤルダはその深くへ分け入っていく。読者はヤルダと共に作中世界を把握していくわけだが、それが完全に科学の流儀に従っている。そうなると読書体験としてはやっぱり SF になるのだよね。これは当たり前のことかも知れないけれどそんな SF は他に殆どないわけで、実に新鮮かつ興奮させられる体験だった。まあおれ本人の物理法則の理解についてはかなり怪しいわけだが(だからこそ読むのにこれだけ長くかかった面もある)、そこら辺は流石イーガンで、作中の説明を読んでいけば最低限物語は追えるように書かれている。多分物理や数学がまるで苦手な人でも(←文系の分際で自分がそうじゃないみたいな書き方になっていていささかおこがましいが)この小説を楽しむことはできるだろう。


ヤルダたちの社会は、少なくともオーストラリアやアメリカや日本に住んでこの話を読むような人間から見るとかなり守旧的に見える。ヤルダはその社会に生きながら、大きな発見を成し遂げ、やがてヤルダたちの住む星の運命を知り、その運命を変えようと奔走する。さまざまなレベル/種類の危機が訪れ、ヤルダたちはそれを切り抜けていく。その過程はいちいちスリリングで、また作中で経つ時間はそれなりに長いのだが、描くべきエピソードを巧みに選択して長い年月をこの一冊に詰め込むことに成功している。そうは言っても新書判二段組みで 500 頁以上だからすごい分量なのだが、間延びしたところは一切ない。たいへん面白い、と言っておこう。


これは三部作の一作目ということで、星の運命のゆくえは次巻以降ということになる。あまり掘り下げられなかった社会方面の問題も必然的に噴出する筈で、『ゼンデギ』でも見られた通り作者の関心はそちらにも大いにあるようだから、もしかするとむしろそれがメインみたいな展開になってくるかも知れない。いずれにしても大いに楽しみだ。


最後にネタバレ。ほんとに最後の最後なのだけど、ヤルダがニノを選んだのにはびっくりしたな。ニノがそこまで魅力のある人物だとは読んでいてどうも思えなかったから。それだったらヤルダはひとりで分裂する最期を選ぶ方がずっとあり得そうに思えたのだが、そんなことないかな。