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『ボビー・フィッシャーを探して』 フレッド・ウェイツキン著/若島正訳 みすず書房,2014



ボビー・フィッシャーを探して』 ISBN:9784622078524


同名の映画の原作。映画の公開は 1993 年だったそうで、日本でも翌年に上映されているから、実に 20 年おいて原作が翻訳されたことになる。なぜ今になって、とは思ったが、ともあれちょっと気になっていたタイトルではあったので読んでみた。


著者はフリーのライターで妻と息子ひとりがあるが、その息子ジョッシュが6歳の頃、チェスに人並み外れた才能を持っていることに著者が気づくところから本書は始まる。ジョッシュは瞬く間に頭角をあらわし、同年代の子供の中ではアメリカ合衆国最強クラスの力を見せる。その9歳の夏の全米学童選手権までを父親の視点で描いたのが本書だ。


しかしアメリカのチェス界の環境は率直に言ってかなり厳しいようだ(少なくとも本書の時点では、だが、おそらく今も大差ないのではないか)。全米最強になったところでそれだけで食える水準には届かず、それでいて人生のかなりの部分を捧げなければ強さを守ることはできない。賭けチェスでかろうじて食っているような達人が公園を根城にしている、なんていうフィクションみたいな悲惨な話も出てくる。


というわけで、天才少年の父親たる著者は二つの問題に直面することになる。ひとつ、子供の才能はどこまで本物なんだろうか。どこまで人生を捧げさせるのが妥当なのか? ふたつ、才能が本物だったとして、それをつきつめてどうなる? 
メジャーな分野であれば、ひとにぎりの天才の行く先には成功者としての人生が待っている。しかしチェスは明らかにそうではないのだ。子供の才能が本物中の本物だったとしても、行く末は公園で賭けチェスで生計を立てる勝負師かもしれない。そう考えるのは親としてとてもつらいことだったろう。
ジョッシュの二歳下のライバルとして立ちはだかるジェフは、父親の方針で学校に通わずチェスに打ち込んでいる。服装も清潔とは言えず、冬でもサンダルでうろうろしている。つまり既に人生のかなりの部分をチェスに捧げて――捧げさせられてしまっている。しかしジェフは強い。なにが正しいか、著者は悩み続ける。


本書の中盤で、著者は息子を連れてモスクワに赴く。カルポフ対カスパロフの対戦を見るためだ。時は冷戦時代の末期で、ソヴィエトではチェスのトッププレイヤーはそれなりにいい暮らしをしている。ソヴィエトの社会や、市井の人々の生活環境はいびつに見える。おそらく当時のアメリカ人にとってもそう見えただろう。にもかかわらずチャンピオンには少なくとも公園暮らしからはほど遠いところにいる。
とはいうものの、当時のソヴィエトの上位プレイヤーは政治の道具としてもしっかり使われたらしい。「上」が勝負に介入してくることは時々あり、それに従わなかったプレイヤーは社会的に消されてしまう。チェスを指すことがほとんど許されず、たまに許されてもその活躍は決して報道されなくなる。大会で優勝しても、新聞には「誰々が2位だった」としか書かれないというのだ。これはチェスプレイヤーにとっては死に近い扱いだと思う。まあ、この辺りの話はほんとかどうかわからないのだが、当時はいわゆる公然の秘密のようにされていたようだ。


タイトルのボビー・フィッシャーについては途中で一章まるまる割いて語られているが、最強のチェスプレイヤーにして、たったひとりで米国におけるチェスというボードゲームの地位を一気に引き上げた無類のカリスマでありながら、ほとんど度し難い奇人変人のたぐいで、奇行や迷言は枚挙に暇がないという人物でもあったらしい。著者もこの人物についてはどうにも態度を定めかねるところがあるようで、自分が魅惑されたし今でも魅力を感じているところは認めながらも、これ以上なにかを求めても無駄だろうと漠然と諦めている様子もうかがえる。実際後半生は国籍を剥奪され、各国を転々として、とうとう表舞台に戻ってくることはなかった。この人の伝記も出ているようで、なんとなく読んでみたい気もするし、実際読んだらうんざりしてしまいそうな気もする。


ともあれ、ある天才少年の活躍を通して、当時のチェスを取り巻く環境がうかがえる、面白い本だった。チェスそのもののルールは知らなくとも面白く読めることと思う。





最後に。訳者あとがきがあるのだが、原書が刊行されてから邦訳までのタイムラグがあるため、登場人物たちのその後について少し触れられている。ありがたい情報ではあるがある意味究極のネタバレでもあるので、本編を読む前には読まない方がいい。その中で長じたジェフ少年がジョッシュを評して「父親にいつもプレッシャーをかけられているみたいで気の毒だった」「あんまりチェスが好きじゃないんじゃないかって思えた」みたいなことを言っていたのは中々に衝撃的だった。なるほど、この著者はそのような観点ではもっとも“信用できない語り手”であるのに違いないのだ。