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『残像に口紅を』 筒井康隆著 中公文庫,1995

残像に口紅を (中公文庫)

残像に口紅を (中公文庫)

世界から「あ」を引けば、どうなる?


――いや、どうなると言われても、という感じだろうけど、この小説の世界ではこうなる:二度と「あ」と口にできず、「あ」が入っている単語が消滅し、その言葉であらわされるものや概念も消えてしまう。このルールは固有名詞にも適用されるので、これを読んでいるあなたの姓名のいずれかに「あ」が入っていたならあなたも消滅だ(アーメン(とも言えないようになる))。ただし、意識に上ることがなければ消滅しない、という救済措置はある。たとえば人が生きるうえでいつも胴体の上に頭を乗せていることを意識している人はいない。したがって、全人類がいきなり頭を失って絶滅してしまうようなことはないわけだ。


このルールの下、著者は一章につきひらがなを一文字ずつ世界から「引いて」いってしまう。使える文字が減り、概念が減り、表現が減るわけだ。構造としてはメタになっていて、作家である主人公(実質的に著者の分身といえる)がこのルールに基づいて書いている連載がこの小説であり、同時に登場人物にとっては現実でもあるということになっている。ご丁寧に序盤の章で、主人公とその友人の評論家との会話の形で詳細なルールも説明されている。登場人物によってこのルールの理解度は違って、たとえば主人公はルールを完全に理解しているが、モブキャラになるとなぜ自分が思うようにしゃべれないのかまるでわかっていない、という具合だ。


この小説の存在を知ったのは「NOVA」のどれかに収められていた円城塔の「Φ」を読んだときに、編者のあとがきかなにかで先行アイディアとして言及されていたからだった。「Φ」は「長さが一文字ずつ減る文を並べて語られた短編」なので、ある種の類似性は明らかなのだけど、制限の度合いで言えばこちらの方がはるかに大きい。使える文字の種類がひとつずつ減りつづける長編小説、というコンセプトだけが触れられていたのだけど、それだけで読んでみたいと思ったし、そんなことができるのか?と思わずにはいられなかった。


読み終わってみるとそれは見事にできていて、あまりにも見事にできているものだからかなりの部分はなんだか普通に読めてしまう。第一章なんて「え、これ『あ』使ってないの?」という感じだ(もっとも「あ」は案外使われない文字ではあるらしい)。しばしば著者は文字の欠損を意識させるシーンやギャグを挟んでいるのだけど、そういう場面でもないと意識に上りづらいし、きっと著者も書いているときにそれはわかったのだろう。しかし語るのは大変だったはずで、それも本当に月刊連載していたというのだからこれはかなりイカれている。


第一部では作家たる主人公の日常を描いていて、まだわりあい使える文字は多いながら固有名詞ルールで登場人物が徐々に消える。多分この辺りまでは書き始めたときに大雑把には予定していたのではないかと思う。展開的に面白いのは第二部の途中からで、著者がだんだんやりたい放題し始める。まる二章使って官能小説まがいのシーンを書いてみたり、講演という設定で語りだしたり、急に自伝的なことを始めたり。そのようなしばりがあった方がかえって筆が走ったのかもしれない。しかし雑誌連載ではとうとう完結を見ず、最後の第三部は単行本になる際に書き下ろされた。その部分はページが左右つながったまま、つまり買った人が切らない限り読めないようにされていたらしい。というわけなのでこれ以上の内容には言及しない方がいいのだろう。


単純なルールとその性質の故に不思議な叙情性のようなものがどこか常に漂っていて、なんだか切ない話だった。もしこれからお読みになる人がいれば――余計なお世話ではあるけど――ここまでの到達がいかに困難であるかに、ちょっとだけ想像をめぐらせながら読むといいのではないかなと思う。





ところでこのエントリは「ku」と「su」*1を使わずに書いたんだけど、ね、案外気づかないでしょう。そうでもないかな……。みなさんも一度やってみると、この力業のありえなさをちょっとだけ体感できるかもしれない。

*1:この二文字を選んだことには他意はない。が、やってみると「作」という文字が音読みにも訓読みにも「く」が入っていて非常につらかった(なんせ作品の話するわけだから)。こういうこともやってみないとわからなかったからこれはやってみてよかった。