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『君の名は。』 新海誠監督 東宝,2016

すごかった……! フィクションにここまで心を動かされたのはひさしぶりかもしれない。いやもちろん、このカテゴリ[最近の]でもちょくちょく書いているように、面白い小説を読んだり面白い映画を観たりはしている。でもなんというかこの映画はそれだけじゃなくて、胸にひびいてくるところがあった。新宿 TOHO シネマズにて観賞。


オープニングにいろいろな情報が詰まっていて、観ていてあれっ、あれっ、となるのだけど(たとえばふたりの背中合わせの場面がぱっと切り替わるところとか)そこはそれとして本編は普通に始まる。都会に住む高校生の少年と、地方の小さな町に住む同い年の少女が、夢の中でお互いの生活を体験し始める。もちろんありえない話なんだけど、観客にしてみるとフィクションの中で少なくとも前代未聞というような仕掛けではない。でも作中の当人たちにしてみると全く信じがたいことだ。その非対称性を埋める描き方がすごくちょうどいい。たとえば三葉のほうの最初の一日は朝のシークエンスをちょっと描いて切り上げて翌日に行ってしまうが、瀧の最初の一日はかなり尺を取ってがっつり描かれる。こうして情報が少しずつ出てくるし、両方描くのに比べればいささか品のいい見せ方になっていると思う。


ふたりの周りの世界の対比はあまりにも鮮やかで、瀧の住む東京の風景も三葉の住む町の風景もとても美しく描かれている。特に東京の各地が惜しげもなく細切れに登場するのは素晴らしい。三葉が自分の住む町に感じている閉塞感とそこからの脱出の願望は明確に描かれているから、東京はきらきらしてなくちゃいけなくて、だからこそ入れ替わりにある種の納得感があるのだと思う。瀧の方にはそういうのはなかったように思えたのはちょっとだけひっかかった。


美しいといえば、時間の経過を表現するのに定点カメラの早回し的な映像を使ってたんだけど、あれはなかなかよかった。ていうかおれが知らんだけでアニメでも結構使われる手法なのかも知れん。ともあれ、たぶん三回この手法が使われてたけどどれも綺麗だった。


ふたりが相手とのずれに中盤まで気づかないのはかなり苦しいところで、特に三葉は手首に気がつかないはずはないと思うのだけど、そのあたりは入れ替わるときに持っていける記憶の限界とかそんなようなことなんだろうと思っておけばいい気がする。少なくともおれにとっては感情移入の阻害要素にはならなかった。逆にこの辺りが引っかかる人にはこの映画厳しいかも知れない。


中盤である事実が明らかにされてから、「入れ替わりもの」だったシチュエイションが別のカテゴリに変わる。なるほど、ずれという要素がこう効いてくるのか、と感心する。そこからは瀧の目標が三葉に会うことから三葉を助けることに変わる。でも、そんなことができるのか。できていないからこうなっているのではないか。素直すぎるかもしれないが、このあたりは普通にどきどきした。


クライマックスでふたりがずれを超えて向かい合う。そしてその時間が来る。黒板の右の方にはなんと書かれていたのだったか? この辺りの方言でそういうふうに云うのは、ふたりがもはや――それともそもそもの初めから――たがいの半身であることにつながってるんだろう。その時間が終わって、ふたりはずれの両側に分かたれてしまう。三葉は走り出す。掌を見て怒った三葉は、自分はなんと書こうとしていたのだろう。


そして、エピローグのようなシークエンスを重ねながら(この辺りがサービス精神旺盛と云われる所以だろうか、と思いながら観ていた)、映画は終わりを迎える。何度も差し挟まれていた、通勤電車が何本も並んで走っているカットがまた入って、これも何度も出てきた新宿駅を南から見下ろすカット、その手前に映っているのはドコモのビルだ、そうか、それで最初に出会ったのが代々木だったんだ、とおれの中で納得した。


ひとりで観たのだけど、終わったあと誰かとなにかしゃべりたかった。もう「すごかったね」「よかったね」とだけでも言いたくてしょうがなかった。これから行くひとは、誰かと行くことを推奨します。観た映画についていろいろしゃべりたいな、と思える相手と観に行くといいとおもう。


以下はネタバレを含む妄想:





というわけで(たぶんいろんなところで言われてるだろうけど)「かたわれ」がこの物語のキーワードだと思う。少なくともすごく重要な言葉だ。

  • そもそも彗星はふたつに割れた片方が落ちて害をなす。本来分かれるべきではなかったものが分かれてしまったために起こる悲劇。
  • 口噛酒は三葉と四葉の半分だと説明されている。つまり「かたわれ」である。
  • そして「かたわれどき」――黒板で“死者の時”と書かれていた時間に、“死者の場所”で瀧が三葉の口噛酒を飲むことで、三葉を自分の中に取り込んで最後のチャンスを得る。三年の時を超えてふたりが会うことができるのは、おたがいが共にあるべきふたりの片割れであるからに他ならない。
  • 三葉は自分の身体に戻り、町まで下りていって父を説得する。説得するシーンが描かれていないのは物足りなくはあるけど、おれの中では「かたわれどき」の場面でふたりは本当の意味でおたがいの片割れになったのだから、その時点で三葉は救われているのだ、と考えている。であればもう「どう救われるか」を描いてもしょうがないといえばしょうがないかなと。三葉が入っている三葉が父親の前に現われたことで、描写としてはぎりぎり足りていると思う。
  • 最後にやっとふたりがおたがいの生身の身体を認めたとき、ふたりは代々木駅を出て同じ方向に向かいながら分かれていってしまう電車(山手線と総武線)に乗っている。そしてお互いに会おうとして奔走し、とうとうめぐり会う。一方初めて会った時は、代々木駅で三葉が総武線に乗り込んで瀧と会うが、瀧は三葉を認識しておらず、ふたりは分かれてしまう。このふたつのシーンがちょうど対称になっているのが個人的にはおおおってなって、上の感想で「だから代々木だったんだ」とか書いているのはそういうことです。



あと重要なモチーフはたぶん「橋」で、これもまあベタすぎる解釈なのだけど。

  • 瀧の部屋には橋のスケッチがべたべた貼ってある(たぶん瀧が描いたもの)。途中一度目覚める場面で『BRIDGE DESIGN』と書かれている本が部屋に置かれているのが見える。そして就職活動の時の志望動機で、建築か土木業界(橋だからたぶん土木)を目指しているらしいことがわかる。橋というのはふたつに分かたれているところをつなぐものだから、瀧が時や場所を超えて片割れに手を伸ばそうとすることの象徴になっているのだろう。
  • それとは裏腹に、作中では橋はその「分かたれていること」をあらわす場所としてひたすら登場する。瀧と三葉が相手に電話をかけて通じないのはどちらも歩道橋の上だし、奥寺先輩に「晩飯食いましょう」と言って「今日はここで解散」って言われちゃうのも橋の上、エピローグで奥寺先輩と別れるのも歩道橋(もちろん反対側に歩き出す)、最後の出会う場面の前には橋の上で瀧と三葉がすれ違う場面がある。
  • 彗星落下の場面でも、橋が壊れるカットがある。そりゃあるだろって話ですけど。
  • あれ、こう書くとそんなに重要でもない……? 最後に出会うのも別に橋じゃなかったしなあ。おれの中では瀧が「橋をかける人」って気付いたとき腑に落ちる感じはあったんだけど。もしまた観ることがあったらもう少し橋に気をつけて観てみたい。



あといくつか。

  • オープニング、瀧と三葉が背中合わせに立っているカットが、最初ふたりの背の高さがほぼ同じ→次に瀧の方がぐんと高くなっている、となっていて、単純に考えるとふたりとも中学生→ふたりとも高校生、なんだけど、もしかして実は「同一時点でのふたり」になっている? つまり、中学生瀧+高校生三葉→高校生瀧+大学生三葉、ってなってたらすごいな、とあとで思った。さすがに初見ではわからず。
  • 彗星の軌道の件、気付かなかったけど、ほんとだとしたらボーンヘッドといっていいようなミスだと思う。
  • そういえば彗星が空いっぱいに広がるシーンは総じてめちゃめちゃ美しかった。もたらされる破滅と併せて、ちょっと目を離せないような類の美しさだった。あれはまた見たいな。
  • 口噛酒、気持ち悪かったですね。監督インタヴューによるとわかっててやったみたいなのでこれは弁解の余地がない。ただ「監督の好みやフェチが入らなければなかなかうまくいかない」というのは多分本当にその通りで、だからまあ必要悪とは言える。で、これは妻が言っていたのだけど、同級生に「よくやるよねー」と言わせているのは気持ち悪さに対する自己ツッコミ(この科白があることで気持ち悪さが緩和されている)と三葉の周囲からの疎外感を表現するのを兼ね備えた科白なのでよくできている、と。確かにその通りで、一般論として優れた脚本というのはこのような科白が多いものと思う。
  • 「入れ替わり」から「タイムトラベル(過去改変)もの」に移るのは鮮やかで、年月をずらして入れ替わるとこういうことができるのかというのは中々にコロンブスの卵だった。まあ探せば過去の作品にもあるのかも知れないけど。いま思いついたところでは『トムは真夜中の庭で』は少しだけ似たシチュエイションかな。
  • で、仕掛けが切り替わったところで物語のテンションもがらっと変わっていて、構造とストーリーがかみ合っているのはいいところ。
  • 年月をずらして入れ替わるという仕掛けそのものはいいのだけど、当然ながら「ふたりがずれに気付かない」というのはあちこちでかなり苦しくなっていて、これを受け容れられないという人がいるのはわかる。
  • 三葉はなんと書こうとしていたのだろう? あんな風に怒っていたのだから普通に名前を書こうとしていた、でもいいと思うのだけど、「み」と書こうとして(最後ペンを取り落とす格好になったとはいえ)あのように長い横棒が書かれるだろうか?というのはちょっと気になった。ただここは具体的な妄想まで及ばなかったので、もう少し考えてみる。