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『脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議』 ジュリア・ショウ著/服部由美訳 講談社,2016-12

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

脳はなぜ都合よく記憶するのか 記憶科学が教える脳と人間の不思議

競馬をよく観ていた頃、自分の記憶のあてにならなさを思い知らされることはしばしばあった。たしか藤代三郎あたりも書いていたと思うのだが、自分が好きだった馬の勝ったレースの映像を何年か後に観たときに「こんなレースだったっけ?」と思うことは実にしばしばあった。函館記念ゴールデンアイは大外からすっ飛んできたのではなかったか? 本当に驚くほど違うことも実際あったが、どちらが正しいかは常に明白だった。レーザーディスク*1の方が正しいわけである。ゴールデンアイは真ん中を割ってちょっとだけ抜け出したのだ。
だから、記憶があてにならないことは知っていた。しかしそのようなことがなぜ起こるかということはあまり考えたことがなかった。まあメモリとして不完全なんじゃないのと漠然と思っていた程度だった。本書ではそのあたりのメカニズムを教えてくれる。また、記憶がそのようなものである理由についても手がかりを与えてくれる。


「ドレスゲート」の話が出てきたのが面白かった。例の爆発的に話題になった「青/黒」に見えるか「白/金」に見えるか、というドレスの写真の話だ。これはこう――“「青/黒」に見えるか「白/金」に見えるか”――書いてしまった時点ですでにミスリーディングで、実際には水色っぽく見えていた人もいるし暗い青に見えている人もいたし、というようなグラデーションになっていたらしい。かように認知というのは主観的なものであり、記憶というのもまたその認知に基づいている以上主観的であることを免れ得ない。そして、記憶を呼び起こすときにもまた主観からは離れられないらしいのだ。
それも含めて、記憶というよりは認知の話の方が印象に残った。たとえばベビーメディア(幼児教育用教材のたぐい)にはほとんど意味がないらしいことがわかっている、とか。運転中の携帯電話が危険なのは「片手が使えなくなるから」ではなくて「人間の脳が絶望的にマルチタスク下手だから」である、とか。後者はたぶんそうなんだろうなー、ハンズフリー端末なんて安全面では全然意味ないよなー、と思ってはいたけど、はっきり言ってもらえてすっきりした。


あと、最後に、ついでみたいにフロイトをぼこぼこにしてたのがすごく面白かった。この分野の人にとってはもしかすると常識みたいなことなのかもしれないが、「おそらく歴史上もっとも複雑かつ成功した疑似科学的理論」とまで書かれているのは初めて見た。まあしかし言われてみると、というところかもしれない。
全体としてはけっこう面白い本、というところだろうか。記憶に関するあてにならなさ、というのは多分知っておいて損は無くて、それは自分についてもそうだし、他人についてもそうだ、というところは認識しておいた方がいい知識と思う。





ところで、この本は原注が割愛されている。全部ウェブに上げてあるのだ。→http://nf.kodansha.co.jp/content/files/upload/pdf/20161125-034105.pdf
たぶんわずかでも紙数を減らして製作コストを下げているのだと思う。原注と言っても時々短い説明とかついてるサービス精神旺盛な奴じゃなくて、ほんとにひたすら出典だけ書かれてるタイプの奴だから、もし本書についていてもおれは参照しなかっただろう。そうなんだけど、でもこれは本についてるべきなんじゃないか。紙の本のいいところは、それ自体が記録メディアであると同時に再生装置でもあるというところだ。このように一部分だけがウェブに上がっていると、それを参照するための装置や環境が必要になってしまう。それに上の URL がいつまで生きていることか。もちろん注の出典にも URL はたくさん出てるから、注を活用するためにはどのみちネット環境は必要ではあるのだけど、それとこれとは話が別だ。一般向けの本だからこれでいいだろう、それよりコストを下げよう、という判断なのだろうけど、あまりよろしくない方向性だと思う。

*1:当時ウインズにはレーザーディスク再生ボックスみたいなのが置いてあったのです