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『彼女がエスパーだったころ』 宮内悠介著 講談社,2016-04

彼女がエスパーだったころ

彼女がエスパーだったころ

「科学」をテーマとした連作短編集。もう少し言えば、「科学と非科学のあいだ」や「科学が人間にもたらすもの」がテーマといえるだろうか。語り手であるライター/ジャーナリストの「わたし」が登場する短編が六編収録されているが、それぞれの短編同士の関連は比較的薄い。
表題作「彼女がエスパーだったころ」は、超能力を使える(と作中では断定されていないが、おれはそう読んだ)女性千晴が主人公。明らかに普通の人間にはできないことができる彼女は、しかしそれをなにかにつなげることができない。動画サイトに超能力を使う場面を載せてアクセスを集めるとか、そんなことしかできない。もっともっと役に立つかもしれない力なのに、研究に値する個体なのかもしれないのに、そのような方向に向かえない。まともな人はそんな動画を見もしないし、見ても相手にしない。それは科学的な常識が世の中にしっかり根付いているからで、それ自体はおそらくむしろ健全なことだ。だがそれこそが千晴を学術世界から遠ざけてしまう*1。やがて千晴は精神のバランスを崩し、近しい人を巻き込みながら自らを損なっていってしまう。


「薄ければ薄いほど」は表題作とある意味では対になる話で、人里離れた田舎にある終末医療専門の施設とそこにいる人物がクローズアップされている。ここでは実質的な治療は行われず、無害な成分をさらに何億倍にまで希釈した液体が患者には投与される。タイトルでぴんと来た人もいるかもしれないが、まあネットではどちらかと言えば叩かれがちなアレである。しかしそれが患者に穏やかな日々をもたらしているとしたら、どのように評価すればいいのだろうか。もちろん論理的な答えはひとつしかなくて、その答えは科学的には正しい。でも、倫理的にはどうなのか……なんてことは作中には出てこないのだけど、連作を読んでいくとそのような境界線に思いが至る。


いわゆる SF 的アイデアとして面白かったのは「ムイシュキンの脳髄」。ロボトミー手術は今でこそとんでもない愚行だったように言われているが、当初は間違いなく当時の水準で言う科学だったのだし、実はある程度の成果をあげている(だからこそあれほど長年にわたって行われたのだ)――という史実をベースに、あれは眼窩からアイスピックを差し込むという手法が乱暴すぎたのだ、MRI や電子メスといった大幅にアップデートされた技術を用いて「正しく」行えば、適切なロボトミーとでもいうべき手技が可能なはずである、という理論が作中では展開される。危ういところを狙ってくるネタがスリリングだし、物理的な干渉を抜きにした脳の可塑性と逆に絡めていく物語の展開が面白く、芸術と芸術をなす人間という普遍的なテーマに触れるのもよかった。


あとは簡単に。「百匹目の火神」は一番毛色の違う話で、サルにもたらされたある文化の変遷を描く。科学と科学者個人との関わりがテーマ……なのかな。
「水神計画」に登場する似非科学はいわゆる水伝。水伝の一分派が超先鋭化したらこう……ならねえよ! という話。設定も展開もぶっとんでいる。
「沸点」は本書の最後を飾る一編だが、とりあげられている題材にはさほどの珍しさはない。ある体系に基づいた実践が一定の結果をもたらしたとして、その結果によって体系が正当化されうるか、という本書のテーマの一つをもう一度なぞっていく話。


非現実要素が少ないうえに、なにかそこかしこに妙なリアルさがあって(たとえば千晴が動画サイトでちょっと人気者になるくだりとか)、この世界と地続きの物語という感じが強かった。なかなか面白い一冊でした。

*1:余談だがこのテーマの SF にアシモフの「信念」がある。あちらはコミカルなフレーバーだったが、愉快で楽しい小品。