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『眩(くらら)』 朝井まかて 新潮社,2016-05

眩

葛飾北斎の次女、お栄、のちの葛飾応為の生涯を描いたフィクション。この人についてはわかっていることは多くなく、生没年も不詳、どこでどのように死んだかも判然とせず、本人の作品と確定されているものも十数点しかない、という感じらしい。あとは親交のあった人物からのほんのわずかな言及がある程度で、人となりとなるとほとんど伝説しか残っていないと言っていい。しかし絵の腕は確かだったようで、北斎の作品とされているものにも応為が手を貸した、あるいはまるまる描いたものも相当な点数あるのではないかとも言われている。


とまあ、そもそも存在そのものがフィクションっぽい人なので、この作品もかなり自由に書かれている。上で書いたお栄に対する言及にはどうも父に似てあまり物事にかまわないたち、というようなものがあったらしく、この作品でのお栄はさっぱりとした性格で、画を愛し、家事は苦手、という風に描かれている。
しかし浮ついたところはなく、あちこちに現実につなぎとめるような描写があるのがうまいところ。たとえば絵の具を作るための仕込みをする場面が複数回登場するんだけど、実際の作業は木の実とか根っことかを日干ししたり土に埋めたりするらしく、汚いしひどい臭いもする地道な仕事だ。でもお栄はその作業をむしろ好きで、ひまを見てはこつこつやっていい色を探している。


母親と弟の存在もいいアクセントになっている。母親は北斎の妻だけに(「だけに」であろう)リアリストで、理解者とは言い難い。人間的にもすごくいい人としては描かれていない。まあ凡庸な人だ。それだけに中盤以降の北斎と妻との関係にはぐっと来る。弟についてはその幼少時から気が重くなるようなエピソードが折に触れて描かれる。ぼんやりと不穏な気配がつきまとう感じは血縁ならではのしんどさがある。
北斎の家に出入りしている絵師、善次郎が飄々としたキャラクターでいい味を出している。どうもそれなりの家の生まれらしい、上手いとは言いがたいが色気のある絵を描く、口が達者で女にはやたらもてる、とけれんみあふれる人物だが、要所要所でお栄の人生に深く関わってくる。吉原にいる年の離れた妹たちの描かれ方もよい。近くを通っているはずなのになかなか道が交わらない様はどうにも切ない。
北斎そのひとこそはこの物語のもうひとりの主人公だ。当代きっての凄腕の絵師であり、とにかく絵を描くことに貪欲であり続けた怪人物をユーモアたっぷりに書いていて、大変愛すべきキャラクターに仕上がっている。当時としてはたいへんに長生きしたことはよく知られているが、最後まで向上心を失うことはなかったという。もちろんこういう人物の周りの人は多かれ少なかれ振り回されるわけで、お栄もその例外ではなかったのだけど。


しかしなんといっても葛飾応為といえば『百日紅』である。作者が言及しているかどうか知らないが、あの偉大なる先行作品を意識しなかったはずはあるまい。でも両方読んでみて、立ち上がってくるお栄の人物像にそれほど大きなブレがないことが個人的には嬉しかった。まるでそれぞれの作品がお互いを補完し合っているかのような、まだ書かれていなかったエピソードが書かれていてそれを読んでいる、というような感覚があった。それはわずかな史料からこねあげられた虚像なのかもしれないけど、それを共有できているという幻想を抱けるのは嬉しい。


クライマックスでは応為が集大成といえる作品に挑む。後世で代表作と見なされるようになったその絵には、見事な光と影が描かれている。これを人生の反映と考えるのはあまりに安直ではあろうけれど、でもそれなりの人生経験を踏まなければ中々達することのできない境地ではあろう。この世に痕跡をほんとうにわずかしか残さなかった絵師が、自らの名を刻んだ絵を残してくれたことは喜ばしいことと思う。


そこから晩年の暮らしと、軽やかでどこか寂しい終幕まで、きっちり書いてくれているのもよかった。
面白くよくできた作品でした。『百日紅』好きな人には強くおすすめします。そうでない人にも、普通におすすめします。そして、これを読んで『百日紅』未読の人には『百日紅』を強くおすすめします。