黄昏通信社跡地処分推進室

黄昏通信社の跡地処分を推進しています

『蜜蜂と遠雷』 恩田陸著 幻冬舎,2016-09

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

デビュー作をほぼリアルタイムで読んだ作家、というのはあまり多くないけど、恩田陸はそのひとり。そのデビュー作『六番目の小夜子』は青春のきらめきと学園という空間の理不尽さをぱっと閉じ込めたような作品で、個人的にかなり好きだった。その後は竜頭蛇尾の作品が多く、ある時期からはあまり熱心に追っていなかったけれど、本作でとうとう直木賞を受賞したと聞いてさすがに少し気になっていた。


本作の題材は音楽。架空の、日本を舞台とした国際ピアノコンクールを予選から決勝まで描いている。冒頭では審査員の音楽家に視点を置いているように、参加者の誰かが主人公とはっきり決まっているような書かれ方にはなっておらず、強いていえば全員、あるいは、コンクールそのものが主役と言えるだろうか。
一度は音楽をなげうってしまったが、もう一度表舞台に戻ってきたかつての天才少女。その天才少女と幼い頃わずかに道が重なっていた、誰からも愛されるスケールの大きな優等生。弟子をとらないと信じられてきた巨匠が、その生涯の最後に手塩にかけたアウトサイダーの少年。中心になる登場人物たちは、丁寧に描かれてはいるがステレオタイプ的な属性を付与されていて、そこを大きくはみ出すところはない。しかしその中へひとり投げ込まれた高島明石という人物がよく利いている。高島は音楽大学を出たもののサラリーマンになって、自宅に防音室を作ってピアノを続けていて、「生活者の音楽」があるはずだ、という信念のもとにコンクールに挑戦する。この人の存在のおかげで物語は親しみやすくなっているし、この人の戦いぶりは勇気を与えてくれるようなところがあった。


ピアノコンクール自体は、構造としては比較的エンターテインメントにしやすいと思われる。一次予選があり、二次予選があり、三次予選があり、決勝がある。無論落ちれば終わりだが、勝ち上がっていけば同じ相手と何度も対戦することになる。観客がいる、審査員がいる、マスコミの取材がある。まるっきり一から説明しなければならないほど知名度が低くはなく、しかし細かいところのルールや仕組みにおいてはしばしば説明だけで読者を感心させることができる。そういう様々な要素が、「もの」としてはフィクションの題材に実に向いていると思う。


他方で、言うまでもないが、音楽を書くのはめちゃくちゃ難しい。ためしにあなたの好きな曲についてどんな音楽でどういうところが好きか書いてみるといい。ほとんど不可能ではないかと思えることだろう*1。まして演奏について、その演奏者の個性まで込めて書くことができるものだろうか。その問いに対する答えが本書にある。


……などと書いてきたが、実のところ、おれは本作に登場する曲を一曲たりとも知らない。つまりおれが何を言おうともそれが本作の音楽表現の妥当性についての評価としてはほとんど無意味だ。おれが言えることは、本作の音楽シーンは読んでいて面白かったし、一定以上のもっともらしさがあったし、登場人物のキャラクターが反映されていた、ということだ。おれにとってはそれはこの作品を楽しむのに充分だった。
しかし、そのような角度からしか評価できないのであれば、音楽でなくてもいいのでは? という疑問にはつながる。実際には、世の中において音楽が置かれている位置にある創作物はもちろん音楽しかあり得ないし、近いものすら存在しない。たとえば世界的な権威のあるコンクールがあったり、そこを通過したひとにぎりのプロだけがそれを生業にしていけたり、そこを目指す者たちは後を絶たなかったり、とかそういうような状況全般は、直接音楽とは関係ないけど音楽にしかないものだ。だから音楽の話でなければならないのだ——というような説明はできる。


才能の世界を描くということは、常にそのような難しさを抱えることになる。その題材そのものについて、どこまで描写してどこまで伝えられるのか。作者が、読者が、どこまで理解しているのか。
でもそれを乗り越えてもなお書きたいと思わせるだけのものが、音楽というものにはあるのだろう。その力や魅力については伝わっていると思うし、それがエンターテインメントとして成立している。それであれば、理由としては充分なのかもしれない。


本作は雑誌連載されていたそうだが、完結まで7年を要したという。さもありなんと思う。作家として脂の乗りきった時期を捧げてものされた作品は、それに見合う傑作となった。受賞を抜きにしても、今後長きにわたって作者の代表作として真先に名前の挙げられる作品になるだろう。

*1:逆に、さらっとできるようならなにかしらの才能がある可能性があるので、少し真剣にその可能性を検討した方がよい