黄昏通信社跡地処分推進室

黄昏通信社の跡地処分を推進しています

『栽培植物と農耕の起源』 中尾佐助著 岩波書店:岩波新書,1966-01

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)


この本はめちゃくちゃ面白かった。50年以上前に書かれた本だが、おれが 2017 年に読んだ本の中でベストだ。
農耕の起源はどこにあるか。著者はいきなり語り始める。農耕は地球上の複数の場所で同時発生的に生じている。ただもちろん世界中どこでもというわけでもなく、いくつかのクラスタに分けられる。クラスタには作物の種類のみならず、栽培法や食べ方までを分類の手がかりとする。そのクラスタをここでは農耕文化基本複合と呼ぶことにしよう。……といった具合だ。そこからも著者は饒舌に語る。


そも植物の栽培はどのように始まるのか。これは多分に偶発的なものであるという。しかし作物になる植物にはいくつかの条件があるのだそうで、なかでも重要なのが一年生であること。これは必須の条件らしい。単純に種蒔きから収穫までが一番短い、ということもあるが、品種改良のフィードバックの速度が速いことが大事なのだそうだ。また種子の脱落性も重要な条件だ。実った穂が勝手に落ちてしまうと収穫の効率が大きく落ちるからだ。茎ごと刈り取ってそこから実をもぎとるのが一番効率がよろしい。
栽培作物の種類の移り変わりも調査していくとある程度わかるらしい。ある時期に栽培され、その後(多くの場合もっと優れた作物に移行したために)栽培されなくなってしまった作物は、大抵野生化して集落の周辺に残る。これを著者はレリクトクロップと呼んでいるが、これらを調べることで作物の伝播の順番や範囲を推測することができるのだそうだ。


最初に紹介されるのが根栽農耕文化。これは主に東南アジアを中心とする熱帯から亜熱帯に広がり、文字通りヤムイモ、タローイモなどの根栽やバナナなどが主な作物である。バナナというとおれたちはあのバナナおやつ*1に入ったり入らなかったりする奴を想像するが、実際にはすごくいろいろな種類があって、イモに近くて主食となるものも多いのだそうだ。栽培品種ではかなり古い段階から二倍体、三倍体なども用いられていて、人間による人為的な品種改良が行われていることがわかる。フェイ・バナナという品種について「味は大変良いという噂だが、現在どんどん消滅しつつある」などとさらっと書かれていて面白い。ちょっと食べてみたくなる。
ヤムイモというのも単一品種ではなくいろいろな種類が含まれる総称だが、特徴としてはそのままだと毒があって食べられないことで、火を通して無毒化して食べるのが基本。だがそれは原始的な段階で、そのうちに水でさらせば食べられることがわかったので、もう少し文化が進むと火を使わないで食べるようになるらしい。日本のコンニャクはこれである。あほみたいに手間をかけて最終的に大して栄養価のないぐにゃぐにゃした食物に着地するという芸術的な食べ物だが、ヤムイモの食べ方としては洗練されている方であるようだ。
本題とは少しずれるが、パンノキ(ブレッドフルート)の味に関する言及があったのも面白かった。「パンとイモの中間」ぐらいのものだとちゃんと書いているのだ。池澤夏樹はあれはあまりパンらしくない、キリスト教の宣教師が先住民に聖書に登場する「パン」を説明するために無理やりなぞらえた木なのではないか、というような推測を書いていたが、ここの記述とはだいぶ乖離があるようだ。


我らが日本は照葉樹農耕文化というべきものに属するらしい。根栽農耕文化からは北に離れすぎているため、たとえばバナナはないしタローイモもかなり限られるし(唯一サトイモだけがこれに属するとか)、その分異なる文化を持っている。イネについては、我々は稲作文化などと言いがちだがそんなものはない、と断言したうえで、それでも重要な作物であるとしてそれなりに紙数を割いて説明している。「ところどころでスシ(鮨)を作っていることもおもしろい現象だ。」そうで、ここでのスシはいわゆるナレ寿司、つまり生魚と炊いた米を合わせて発酵させたものだが、稲作を行っている地域にぽつぽつとしかし幅広く見られる食法らしい。琵琶湖にもあって鮒寿司と呼ばれている。著者は「コメが人間の味覚上非常に好まれる」と主張していて、米と麦を両方食べる地域では必ず米の方が高級で麦の方がその下みたいな扱いになる、というようなことを書いているがこれはさすがに言いすぎだろう。おれ個人としてはコメの方がずっと好きだけど。


とまあこの調子で紹介していくと要約みたいになっちゃうのでここら辺にしておくが、このあともサバンナ、地中海、新大陸、とそれぞれに農耕文化が紹介されていき、内容も語り口も抜群に面白い。豆類を食用にするためには絶対に煮炊きが必要なので、生えている生えていない以前に「鍋」に相当する道具を持つ水準に達していないとそもそも豆を食べることがあり得ない、なんて話とか。ヨーロッパの言葉には「雑穀」をひとつのカテゴリとして表す単語があるが、日本語だと文字通り「その他の穀類」と表すしかないのに対し、日本語には「麦」という言葉はあるがヨーロッパの言葉にはカテゴリとして「麦」を表す単語はない、とか。このあたりの話は単なる植生の違いが文化の違いにつながっていくリンクになっている。


著者はたびたび世界各地に赴いて長期滞在しながら現地の作物を研究していたらしい。
世界の農作というあまりに広すぎる題材を、さらに歴史的な起源にまでさかのぼってずばずば語り、対比し、位置付けていくその力づくな語りと、それを新書一冊に収めてしまう圧縮力には圧倒される。新書にありがちな物足りなさは一切ない。それどころか、ここからどれだけ世界が広がっているのだろうというわくわくした感覚が強く残る。素晴らしく面白い本だった。掛け値なしにおすすめ。

  • 救荒植物にも言及があった。「救荒植物は、(略)地域の文化複合の一つとしてそれが定まっているものである。」というような記述で、ワラビとスギナが例に挙げられていた。どちらも食べられるが、地域によって救荒植物扱いになっていたりなっていなかったりする。著者の見る限りではそこに必然性はなさそうだ、ということで、これはおれが知っている救荒植物の知識と概ね一致する。たぶんに偶然や「食べることになっている」という前提がそれを定めている。

*1:ひどい間違いをしていたので修正。バナナがバナナに入ったり入らなかったりするのはかなりシュールな状況だと思う。バナナとはなんなのか……?