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『羊と鋼の森』 宮下奈都著 文藝春秋,2015-09

羊と鋼の森

羊と鋼の森

宮下奈都は初めて読んだ。調律師を描いた物語で、少し不思議なタイトルだけど、テーマに基づいた由来がある。
考えてみると、調律師はある種のメンテナンスマンという職能でありながら、ある意味では芸術家に近い存在でもある。それはその整備する対象がピアノという楽器だからであって、そのピアノというのもまた境目の立ち位置にある。あれだけ大きくて重い楽器であることを考えると、ほとんど信じられないほど普及率が高い。もちろんプロの演奏家やそれを目指す者たちも当然所持している楽器だが、趣味として、あるいは子供の習い事として、ある種のシンボルのように機能しているもののほうが割合としてはずっと多いだろうと思う。
どのようなピアノであっても、弦とハンマーを持つかぎり、定期的な調律は欠かせない。鍵盤を叩くごとにわずかなひずみが発生し、それが蓄積されていく。演奏しない時ですら、重力や湿度、弦の張力、木材の伸縮、などのさまざまな要因によってどんどん音は歪んでいく。調律師はそれを修正する。弦の張りを強めあるいは弱め、ハンマーのストロークを調整し、フェルトに針を刺してほぐす。こういう具体的な方法が描写されているのがよかった。そのほかにも、主人公は調律を請け負う会社の社員として派遣されて調律をするのだけど、そのあたりの「調律師の仕事」が垣間見えるのは興味深かった。おれはそういう「仕事」の話が好きなのです。
主人公は、漠然としたきっかけで調律師になる。確固たる目標があるわけではない。迷いながら少しずつ自分の道を見つけていく。会社にいる先輩の調律師たちや、仕事で訪れることになるお客さんとの関わりの中で、ゆっくり前進していく姿が好ましい。わけても主人公にとって大切な存在になっていく「ふたご」との間で紡がれるエピソードは物語の縦糸の一本になっていて、でもそれがはっきりとした中心というわけじゃないというところも好みだった。
題材や、主人公の性格など、派手ではないけれど、それこそ森を連想させるような静謐な物語で、しみじみとよかった。タイトルの由来も作中で出てくるんだけどすごくいいんだよね。この作者の作品ももう少し読んでみたいと思う。