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『蜜蜂』 マヤ・ルンデ著/池田真紀子訳 NHK出版,2018-06

蜜蜂

蜜蜂

西暦 2098 年。地球上からは蜜蜂が絶滅していた。虫媒花の作物は受粉のために人の手を必要とし、タオはそのための授粉労働者として働いていた。来る日も来る日も木に登り、雌花に専用のはけでそっと花粉を塗りつける。労働時間は長く食料は乏しい。それでもタオは一生懸命働いている。わが子ウェイウェンにはどうしてもこんな目にあってほしくないから。8歳になれば子供は労働力とみなされてしまう。それまでにお金をためていい学校に入れなければ。そのための細い細い希望にタオはすがり、ウェイウェンに「お受験」対策の勉強をさせる。だが夫のクワンはそこまでの切実さがない。ウェイウェンを愛していることに疑いの余地はないが、彼が自分たちと同じ道を歩むとしてもそれはそれで仕方がないと考えているふしがある。お受験対策もかわいそうだと考えている。そこにははっきりとした溝がある。そんなある日、突然休日が与えられる。タオとクワンはとまどいつつも、ウェイウェンを連れてピクニックに出かける。久しぶりにリラックスした時間を過ごし、ふたりの間のわだかまりもわずかに薄まりそうになる。だがその時事件が起きる。
そんなディストピア風の未来パートから物語は始まる。三つの時代、三人の主人公のエピソードが章ごとに順ぐりに語られる構成で、あとのふたつの時代は 1852 年の養蜂研究者ウィリアムと、2007 年の養蜂家ジョージだ。ウィリアムは若いころの失敗から研究者としてはほとんど挫折したきりの半生を過ごし、冒頭の場面ではベッドから起き上がることもままならないほど弱っている。ジョージはアメリカ合衆国中西部で養蜂業を営んでいるが、経営状況は芳しくない。後を継ぐものとばかり思っていたひとり息子のトーマスも、大学に進んでからはあまり家にすら寄りつかなくなってしまった。妻のエマはトーマスの進路に理解があるが、ジョージはそれを受け入れることすらできない。


蜜蜂の話である。
タオのパートで蜜蜂の不在が虫媒花を機能させなくなっているように、ウィリアムとジョージはそれぞれ「機能しなくなった者」として描かれている。ウィリアムは文字通り動くこともままならず、ジョージはなんとか働いて稼いではいるが家族とはまったくうまくいっていない。そこへそれぞれのパートにおける蜜蜂的存在があらわれて、機能しなかった主人公たちを助け出す。ウィリアムには娘のシャーロット、ジョージには息子のトーマスだ。特にシャーロットの愛らしさは感動的で、ウィリアムが立ち上がり再び店に立つ日の希望に満ちた描写は圧巻だ。しかし本書では希望の兆しはすぐに絶望に変わる。ウィリアムが若き日の屈辱を晴らすはずの日は、その屈辱の再生のような一日になってしまう。ジョージのもとにもトーマスが戻ってくる。だが、今度は大事な商売道具に異変が起きる。
一方で、タオのパートは逆の構成になっている。最初存在している「蜜蜂」ウェイウェンが、事件によってふたりのもとから引き離されてしまう。このパートはつらい。親として、どんどん希望が引き剥がされていく展開がほんとうにきつい。あるかなきかの手がかりを追うために、唯一の希望であったはずの貯蓄に手をつけてしまう、それは論理的には矛盾しているけれど、でもそこで諦められる親がいるだろうか?


そして終盤、三つのパートを結ぶ時間を超えた糸がようやく示される。ウィリアムから発する糸は、もしかすると後世の誰かを直接救うものではないのかもしれない。けれど、確かにウィリアムがこの世にあって意義のあることを成し遂げた証になっている。だからなおさら、それを引き継いだトーマスから発する糸がタオに届く場面にはぐっときた。蜜蜂の不在に対して、トーマスは決してあきらめなかったのだ。
最終盤で、物語はやっと絶望に変わらない希望を提示してくれる。それはほんとうにかすかな希望だけれど(そしてそれによってウェイウェンは奪われてしまうわけだけど)、きっといつか実りにつながるのだと信じさせる力がある。
ということで、読み応えのある面白い物語でした。おすすめです。全体としてはつらいシーンが多いんだけど、読後感は決してつらくないです。