黄昏通信社跡地処分推進室

黄昏通信社の跡地処分を推進しています

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』 J・D・サリンジャー著/金原瑞人訳 新潮社:新潮モダン・クラシックス,2018-06

サリンジャーの初期短編八編に、生前最後の作品「ハプワース」をパッケージした日本オリジナルの短編集。英語圏ではサリンジャーの本は四冊*1しか出てないんだけど(サリンジャーがそれ以外はだめって言ってたから)、日本では初期短編集とかが早くから出てて、どうも発表された作品は全部日本語で読めるらしいんだよね。そこら辺の経緯が率直に申し上げてよくわからない。本書に収録されている短編のうち六編はホールデン・コールフィールドとその兄ヴィンセント・コールフィールドにまつわるもので、最後に載っている中編「ハプワース16、1924年」はいわゆるグラース・サーガの最後の一編にしてサリンジャーが生前最後に発表した作品でもある。
こうして並べられてみるとホールデンとヴィンセント、そしてその友人のベイブにまつわる「コールフィールド・サガ」とでもいうべき作品群が存在していたことがはっきりわかる。ごく断片的な時間しか描かれていないが、それぞれの人物像、たどった運命、置かれている環境、そういうものがくっきりとあらわれている。それが『ライ麦畑でつかまえて』(以下『ライ麦』とす)の陰にあったのだとわかるとまた見えるものも違ってくるかなと思う。短編群と『ライ麦』では多少の設定の異同があるものの、ホールデン本人の登場する二編はほぼそのまま『ライ麦』に組み入れられているし*2、あえて名前まで同じにするからには同じ人物を描いたものと考えて間違いではないのだろう。
ホールデンが直接は登場しない四編は従軍中あるいはその前後の出来事が題材に採られている。個人的に特に印象に残ったのは「最後の休暇の最後の日」で、戦争が日常に投げ落とす暗い暗い影と、その中で生きる青年の不安とある種の昂揚が描かれているんだけど、ここに登場するヴィンセントがとてもいきいきと魅力的で、これだけの情報量でこんなに人物を立たせることができるものかと驚かされる。そしてベイブの妹マティがおそろしくキュートだ。マティは「他人」にも登場して、ベイブを世界につなぎとめるような役割を果たす。
(それにしても、サリンジャー作品におけるある年齢以下の女の子の無垢さはおそろしいほどで、いったい何があったんだろうとすら思う。サリーやフラニーになると別に全然そんなことはないので、ごく限られた時期の女の子にだけそのような理想が投影されている。)
「若者たち」と「ルイス・タゲットのロングデビュー」はコールフィールド家ともグラース家とも関連のない初期の短編。悪くないんだけど、なんでここに入っているんだろうという感じはある。
そして「ハプワース16、1924年」。これはもうほんとうによくわからない。7歳のシーモアがサマーキャンプから両親に書いた手紙、ということになっているのだけど、シーモアの知性はあり得ないほどに高すぎるし、親にダメ出しをしてみたり、最後のほうは古今東西の文芸作品を列挙してほめてみたりけなしてみたり、なんなんだこれはとしか言いようがなくて。難解と言われることが多い印象だが、「シーモア −序章−」みたいな入りづらさとは違って読むだけだったらまあまあさくさく読める。でも意図とか面白さとかになると個人的にはほとんどお手上げだった。発表当時は酷評されたらしいけどさもありなんとしか言えない。訳者解説によると 1996 年頃に米国で単行本化の話があったそうで、結局実現はしなかったけどサリンジャー本人は乗り気で許可も出していたのだそうだ。「あれだけ酷評されたのに本にしようとしてたしなんたって生前最後の作品なんだから読者としては捨ておくわけにもいかない」みたいなことを訳者は書いてるんだけど、そう言われましても。
余談ながらおれは学生の頃収録作を全部旧訳で読んだことがあるはずなんだけど、「ハプワース」のごく一部以外まったく憶えていなかった。このエントリはその程度の奴が書いております。
ということで、おすすめしません。短編はいいです。特にコールフィールドがらみの六篇が新訳でまとめて読めるのはよいと思う。註で挙げている四冊を全部読んで飽き足らなければ、という程度。

*1:ライ麦畑でつかまえて』『ナイン・ストーリーズ』『フラニーとズーイー』『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア −序章−』

*2:ただし細部は違う、たとえばホールデンにはフィービー以外にもうひとり小さな妹がいることになっている。