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『デザインされたギャンブル依存症』 ナターシャ・ダウ・シュール著/日暮雅通訳 青土社,2018-06

デザインされたギャンブル依存症

デザインされたギャンブル依存症

これはけっこうすごい本だった。主にアメリカの、カジノに入り浸るギャンブル依存症の人の心理と、カジノ側のお金を搾り取るためのさまざまな戦略を、かなり微に入り細にわたって書いた本。
冒頭のインタビューがすごくて、ラスベガスに住んでてギャンブル依存症に陥っている人に当人の生活サイクルを図示してもらうのだけど、自宅が中心に描かれていて周りにカジノとか職場とかスーパーとかがあって、そこをぐるぐると回っているような矢印が書かれている。で、カジノはもちろんスーパーとかガソリンスタンドとかにもスロットマシンとかがあるらしい。それで「スーパーで買い物をして、今日こそは帰ってごはんを作ろうと思うんだけど、出口の側にあるスロットマシンを見るとつい打ち始めちゃって、気がつくと2時間経ってる」みたいなことを言ってたりする。どう考えてもやばいんだけど、そういうことになっちゃってる人が一定数いる、というのが現実らしい。
そもそもギャンブル依存症の人がどういう状態なのか、ということを、本書を読むまではあまりよくわかっていなかった。どこかで大儲けができるという幻想から抜け出せない人が射幸心とサンクコストのおかげでずるずると泥沼にはまっている、みたいなイメージがあったのだけど、事態はもう少し複雑でもう少し絶望的らしい。本書を読んでいると、儲けようと思っているうちはまだ大丈夫っぽいな……みたいな気持ちになってくる。ほんとうに深刻な依存症の人は、そもそも勝てるとも勝とうとも思っていないらしい。ただギャンブリングマシンとのやりとりに没頭して、周囲からなにもかもが消え去ってしまうような状態に入りたい、少しでも長くそこにいたい、ということを望むようになるのだそうだ。そのためには金銭が失われることも受け容れられるので、つまり依存症に陥っているプレイヤーとカジノとは最初から勝負をしているわけですらないのだという。むしろ共犯に近い関係なので、必ずカジノが最後には勝ち、コインを呑み込んでしまう。
その周囲からなにもかもが消え去ってしまう状態――本書内では「フロー」という言葉が多く使われている――をプレイヤーに与えるためにカジノはあらゆる努力を払い、さまざまな工夫をする。建築のデザインから客を迎えるための仕掛けがほどこされているのだという。そこにはある種のセオリーがあって、客を包み込むように、引きずり込むように、ストレスを与えないようになっている。カーブを多用すること。広すぎないこと、狭すぎないこと。ただし天井は低く、照明も暗くすること。温度は暑くもなく寒くもなく、音楽はどこか少し離れた一点から聞こえてくるように。

ギャンブリング・マシンがたどってきた進化が詳細に書かれているのも面白かった。アメリカのカジノにあるギャンブリング・マシンといえばスロットマシンで、滅多に当たらないがジャックポットの時にはものすごい枚数のメダルが出てくる――というイメージをおれは勝手に抱いていた。そういう人は多いのではないだろうか。確かに昔はそうだった。でもギャンブリングマシンは日々進歩を続けている。客の好みに合わせて主流はスロットからポーカーに移っていて、一攫千金のジャックポットから長時間プレイにシフトしつつあるのだという。
スロットマシンでリールの上に縦の線、横の線、斜めの線が引かれているのを見たことがないだろうか。あれがマルチラインの先祖で、最初は三本とか五本とかだった。ラインの数だけ賭け金を増やせば、どの線の上にシンボルが揃っても当たりになるというものだ。それがマシンのデジタル化でどんどん増えていって、27 ライン、50 ライン、ついには 100 ラインなんてマシンも登場した。ポーカーにおいても平行進化が起きた。これは「同じ初手で複数のゲームを楽しめる」という形態なのだそうだ。それぞれのゲームでは別々のドローが来て、違う結果がもたらされる。なるほど、いい初手が来たら嬉しい機能だし、悪い初手が来てもそう悪いものでもない。単純に複数のゲームを同時並行で遊べるよりはよほど楽しいだろうと思う。
かようにマルチライン、マルチゲームが当たり前になるととても同じレートではやっていられない。というわけでひと口あたりの金額は下がる。使われる硬貨はドルからクオーター、クオーターからニッケル、ニッケルからペニーとどんどん少額になっていった。TITO システムという実際のコインを用いる必要がないシステムが導入されて、プレイヤーは1セント玉の山に埋もれる心配はしなくてよくなった。残されたマシンは、当たる機会はめちゃくちゃ増えたが当たったところで金額的には大したことなくて、長期的にはプレイヤーはじわじわむしられ続け、一発逆転のジャックポットなんてそもそも存在しない、おれなんかから見れば地獄のようなマシンだ。しかしこれが市場に最適化されているのだという。おれはこのことこそが本当におそろしいと思う。ジャックポットを夢見て金を失うのは、まあ愚かかも知れないが、でもある種のかわいげがある。しかし現在のギャンブリング・マシンとそれへの依存症はとてもそんなものではないのだ。
面白い――と言ってはいけないのかも知れないが――のは、プレイヤーはかようにマシンとの長時間の対峙を望むのに、定額で一定時間遊べるという方式には完全に背を向けるらしい。でもまあ言われてみればそれはそうだよなとも思う。金銭のやりとり自体は絶対に必要だ。結果的に同じ金銭と同じ時間を失うのだとしても、それが最初から保証されていたら何の面白みもない。とはいえそれはまあ「普通の」感覚なので、依存症の人でもそこはおんなじなのねー、というところはやはり面白いというべきなのだろう。

アメリカで近年カジノが増えている理由が、そもそも各州の税収が減っていて、それをカバーするために州政府がカジノを運営しているみたいなことらしく、それはほんとにおぞましい話だと思うけど、ひるがえって日本では脱法賭博であるパチンコがギャンブル的な意味で似たようなポジションにあるわけだから、あまり人のことは言えない気もする。冒頭のインタビュイーのように事実上破滅してしまっている人が日本にもいてもおかしくない。ギャンブルはドラッグではないが、ギャンブリング・マシンはともすればドラッグよりもはるかに的確に精密に脳に快楽とストレスを繰り返し与えることができてしまうのではないか。
思うところの多い本でした。ボリュームはかなりあるけど、おすすめ。