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『バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する』 カーラ・プラトーニ著/田沢恭子訳 白揚社,2018-11

バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する

バイオハッキング―テクノロジーで知覚を拡張する

「テクノロジーで知覚を拡張する」と聞いて、どんなものを思い浮かべるだろうか。個人的にはやっぱり『ニューロマンサー』のモリイみたいなやつを想像するわけだが、現実にはあそこまでのことはもちろんまだできていない。とはいえ拡張の試み自体ははじまっている。本書では人間の五感、さらにもう少し細かいあるいは抽象的な「知覚」について、最新の試みを紹介していく。
たとえば味覚。基本の味は長いこと四種類だと信じられてきたが、最近「うま味」というやつが加わった。たかだか 25 年前の話だ。これは衝撃的なことだった。もう一種類あってもいいんじゃないか、というのが現在一部の研究者の関心になっているらしい。しかしまったく新しい味を探すのは難しい。味覚は主観的なものなので、実験は被験者にサンプルを舐めさせて回答してもらう、みたいな感じになるらしいのだが、言葉が存在していない味覚を表現するのはものすごく難しいのだそうだ。まったくその通りだと思うし、おれはだから食レポが基本的に好きじゃない。具体的な味について意味があることを言える奴はこの世にほとんどいないとすら思う。あとは、基本の味というのはひどく曖昧な概念だということはあらためて感じた。三原色みたいに基本の味が五種類あってそれを組み合わせてあらゆる味が作れる、みたいなのでは全然ないんだよね。そうじゃないとしたら、基本の味ってなんなんだ?というところを問い直さなくてはならないと思うのだけど。

視覚の話は面白かった。人工網膜がいま実証実験中らしいんだけどこれがすごくて、眼底に受光センサーを入れて、そこから視神経に信号を送るというシステムらしい。そこまででもなかなかバイオハッキング味があるけど、どう送っていいかはわからないからまあ適当につないで送るらしいんだよね。そうすると脳の側でなんとか映像らしいものを作ってくれる、のだそうだ。それって『サイボーグとして生きる』で出てきた人工内耳の話とそっくりじゃん、と思いながら読んでいたら本当にそうで、この技術は補聴器から転用されたのだそうだ。最初はほとんど同じ回路を埋め込んでいたとか。耳でできたんだから目で……というのはわからないでもないけど、そんな荒っぽいのありなの。で、人工内耳も順応するのにすごく時間がかかるみたいな話があったけれど人工網膜については不思議なことに順応時間が人によってかなりまちまちで、早い人はほとんど接続した瞬間に像が見えるらしい。

……とまあこんな調子でいろいろ紹介されていくので、いちいち書いていたらきりがないからこの辺でやめるが、個人的には前半の五感の話が総じて面白かったかな。後半は情動とか仮想現実、空想現実とかも出てきてそれはそれで面白いのだが、バイオハッキングとは少しずれるところ。まあ原題は「We have the Technology」なので別にバイオハッキングじゃなくて全然いいんだけど、そうなるとこの日本語題はどうなんだという気もするな。かといって原題直訳だとぼんやりしすぎてる感もあるし。
ニューロマンサーのモリイ的なやつは最初と最後だけちょろっと出てくるんだけどまだまだで、そもそも今やってるやつらがお金もないし最先端の技術もないしでそれでも暇と情熱と向こう見ずさを武器になんとかやってるけど、指に磁石を埋め込むとか体温を測れる装置(??)を前腕に埋め込むとかそんな程度らしい。なかなか夢がない話ではあるが、果たして近いうちにブレイクすることがあるのだろうか。

雑多な面白かった話メモ:

  • 嗅覚はもっとも原始的な感覚で、記憶と深い結びつきがあり、認知症の時にまっさきにやられるらしい。文化に根ざした感覚が多く、世界的な基準を作るのが難しい。
  • 身体の痛みと心の痛みは同じものなのかという研究がされているらしい。失恋にアセトアミノフェンが効くか、とかそんなような話。「心の痛み」という言葉は比喩とみなされているけれど、はたしてそうだろうか。
  • 触覚についてはフィードバックが非常に重要だということがわかっているが、それを実際に提供することは難しく、まだ有効な方法はできていない。
  • 仮想現実での体験が現実のふるまいに影響することがわかっている。それを上手く使って世の中をよくできないかという研究がある。