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『現代の死に方: 医療の最前線から』 シェイマス・オウマハニー著/小林政子訳 国書刊行会,2018-10

現代の死に方: 医療の最前線から

現代の死に方: 医療の最前線から

人はいつか死ぬ。どう死ぬか。大抵の人は病院で。それも急性期病院で、挿管され、あるいは胃ろうを作られて。ホスピスで死ぬ人は全体の 5% 程度に過ぎない。自宅で死ぬ人はもっと少ない。多くの人は苦しみを長引かせたくないと思っている。機械に繋がれてまで生き続けたくないと思っている。しかし実際にはそうはいかない。なぜなのか。
著者は急性期病院で長年働いてきて、いろいろな人の死を見てきた。現代の人の死に方が、当人たちの理想と多くの場合かけ離れているということを目のあたりにしている。それは長年の社会の変化が理由のひとつであるという。社会全体として宗教心が後退し、儀式が衰退したことによって、死の受容そのものが難しくなっている。近づいてくる死に対してどう振る舞っていいのかわからないのだ。それは患者本人だけでなく、家族についても言えるし、医師ですらそうだという。だから家族はいざというときになるとなんとか生かしてくれと言ってしまうし、医師はそうなったときに患者や家族に対して死と向き合って受け容れろという話をきちんとすることができない。そうするよりも機械に繋いでしまった方がずっと楽だし、家族の意思に反して機械に繋がなかったと言って訴訟でも起こされたら目も当てられない。

とはいえ、死を受け容れることは難しい、と著者は書く。第六章「有名人癌病棟」という章では著名人の死に際してのふるまいがいくつか具体的な事例で語られているのだが、偉大な哲学者であっても大抵偉大な死に方はできない、というのが現実であるようだ。考えに考え抜くのが生き様であるはずの哲学者ですらいざ自分が死ぬとなると言ってた通りにはできないのだから、凡百の一般人に立派な死に方をしろというのは酷であろう。
そもそも理想の死に方すら、ちゃんと考えることができているかというと怪しかったりする。死ぬ直前まで健康に生きる「ピンピンコロリ」にあこがれる人は多いだろうと思うけれど、実際ほんとにそれでいいのかというと疑問は残る。やり残したことはないか? 会いたかったひとはいないか? 処分し損なった猥褻文書はないか? 当たり前のことだが、死に備える時間はやっぱり必要なのだ。少なくともないよりあったほうがいい。残される周りの人の立場になってみれば尚更だろう。
だからつらくても向き合わなくてはならないし、本当は医師や病院はそれを助けることも仕事にしなくっちゃいけない、と著者は説く。がん告知のような仕事を緩和ケア医にだけ押しつけるような態度は恥ずべきもので、本来であればすべての医師が緩和ケアを行うべきだという。

結局普通の人がどうやって死に備えればいいか、という明確な示唆はこの本には出てこない。でもヒントらしきものはある。著者を含む、医師たちが現にしている死に対する備えだ。著者が調べた限りでは、多くの医師は事前指示書を持っていて、介入の少ない死に方を求めている。指示書の内容は、「心肺蘇生、人工透析、胃ろう、大手術は拒否する、鎮痛薬と麻酔薬は希望する」というのが平均的らしい。素人が事前指示書を作ろうと思っても知識不足のために上手くいかないそうだが、プロが作ったものをパクるのなら望みはあるだろう。
延命治療の大半は家族の希望によって行われるという。気持ちはわかる。
「機械につながれてもいい 生きてさえいれば 顔だって見れるし 手に触れてぬくもりを感じることだってできるのに」(『BREAK-AGE』)
という気持ちをすっぱり諦めるのは難しいだろう。しかし、それこそが死と向きあえていないということなのだよな。だから、望みどおりに死にたい人は、あらかじめ家族とこの話をして、自分がそういう状態になったら殺してくれ、という話をしておかなければならない。
というわけで、死にたいように死ぬためには、それなりの勉強と準備が必要だ、ということになる。漠然とピンピンコロリがいいよねとか言ってるだけじゃだめなのだ。100パーセント望むように死ぬことはもちろんできないけれど、多少たりともそれに近づけることはできる。
本としては、現状の報告的な部分と、同業者たる医師への意見(というか苦言)の部分とが一貫性なく入り交じっていて、ちょっとうまく書けていない印象がある。それでも興味深い事例や考え方はけっこうあった。死ぬときのことを考えたことがある人なら読んでみてもいいと思う。

  • メモ。
    • 「胃ろうは害の方が大きい」とのこと。詳しくは書かれていなかったが、まあさもありなんとは思う。
    • がんなどの告知の話でよく出てくる、患者が「否認、怒り、取引、抑うつ、受容」という五段階の反応を見せる、というエリザベス・キューブラー=ロスが提唱した説について、著者は手厳しく批判している。いわく「かなり憶測に近い考えが科学的事実であるかのようによく引き合いに出される」。実際このような典型的な反応を見せる患者の方が少ないとのこと。言われてみるとそりゃそうかもしれないな、と思うが、言われるまでは疑ったこともなかったな……。