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『息吹』 テッド・チャン著/大森望訳 早川書房,2019-12

息吹

息吹

真打ち登場。『あなたの人生の物語』以来 17 年ぶりとなる著者の二冊目の作品集で、九編の中短編が収められている。ちなみにデビューが 1990 年の「バビロンの塔」らしいので 29 年で二冊ということになる。いろいろな意味ですごいペースだ。
「商人と錬金術師の門」は既読……のはず。アラビアン・ナイト的世界を下敷きに、時を越えられる門と、それにまつわる三つの物語を描くやや長めの短編。タイムトラベルものは歴史改変が大きなテーマになることが多く、「いかに改変するか」(この場合はさまざまな形で改変が阻まれることが多い)もしくは「いかに改変しないか」(見に行くのが目的で、歴史を変えてはならないという制約)に焦点が置かれることが多いが、この話はちょっと違ったところに着目して語っている。なるほどそういう変え方もあるかというかんじで中々よかった。
「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は AI の成長を描く物語なのだけど、たっぷりページを使ってそのために何が必要になるかを描いている、本格的な SF だ。他の存在と相互作用しながら自律的に成長するような AI が実用化されようとしつつある近未来。ただし、AI を走らせるためにはもちろん専用の環境が必要になる。いくつかの競合する会社がそれぞれ独自のプラットフォームと AI を作るが、時が経つにつれてだんだん商業的な優劣がはっきりしてくると、やがて諦めて環境ごと AI 事業から撤退する会社があらわれる。人間が創り出した知性をなんらかの being であると捉えるなら、それに対しての倫理的な責任からは逃げて通れないように思われるが、実際には(おそらく)人間はあっさり経済的な判断を下してしまう。その辺りの機微とグラデーションを実にていねいに描いていてとてもよかった。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」はライフログがテーマ。人生の記録がもっと高い精度で残せたらどうなるだろうか、というシンプルなテーマだけど、こういう風に掘ってくるのはわりと新しい視点かもしれない。にもかかわらず誰もが思い当たるふしはあるだろう。人によってはなかなかきついかもしれないストーリーだけど、逃げずに書いていてすごみがあった。まだ他人事として読んでいるから平気だけど、本当に実現して自分で見られるようになったら死んでしまうかもしれない。
「不安は自由のめまい」は SF らしい面白い設定から想像を広げた中編。平行世界と通信できるタブレットのような機器が発明され、ひとびとは自分の世界に近いが少しだけ違う世界との通信を楽しむようになっていた。機器ごとに接続先は違い、この世界と違う部分もどこも少しずつ違っている。また通信量にも限界があって、テキストメッセージならそこそこやりとりできるけど動画だとそんなに長時間はできない、みたいな感じ。しかし往往にして人は平行世界の自分をねたむようになってしまい、なぜ自分がそちらではなかったのかと考え出すようになってしまう。そのような人たちが集まって話をする集会(AA みたいなかんじ)があって……なんてのはいかにもアメリカらしい設定かな。主人公はその機器の中古品を扱う会社につとめながら、プライベートでは集会にも参加していて、ちょっとしたことから同僚が発案したやばい仕事に巻き込まれていく、というけっこう盛りだくさんな設定で、これももしかすると人によってはきついかもしれない。個人的にはこういうの読む時自分を棚に上げられちゃう質なので普通に楽しめた。
「息吹」は既読(そのとき書いた感想)なのだけど、やはり圧倒的に素晴らしい。登場する世界はどうもおれたちの世界とは大きく違っているようで、そこの人たちは圧縮空気を動力として動いているらしい。交換可能な「肺」を吸気所で一日一回満タンのものに交換し、時間があれば取り出した空の(正確には外気圧と同じ圧になってしまった=動力を供給できなくなった)肺に空気を充填して置いておく。主人公は自分たちの思考や記憶がなにに支えられているのかに疑問を抱き、それをつきとめるための実験を始める。そこから明かされる事実と洞察がすごい。美しくてはかなくて繊細で、読みながら思わず「どうしておれはこういう存在じゃなかったんだろう」と考えてしまうほどだった。二十頁ほどの短い作品だが、世界をまるごと内包しているような豊潤さと、静かに心をうつ叙情性があって、もう読むの四回目ぐらいだけどめちゃくちゃよかった。
他「オムファロス」「デイシー式全自動ナニー」「予期される未来」「大いなる沈黙」を収録。文句なしに面白いので、全人類に読んでほしい。