黄昏通信社跡地処分推進室

黄昏通信社の跡地処分を推進しています

『魔王: 奸智と暴力のサイバー犯罪帝国を築いた男』 エヴァン・ラトリフ著/竹田円訳 早川書房,2019-10

これはまたすさまじいルポルタージュである。原題は“The Mastermind --Drugs. Empire. Murder. Betrayal.”というので魔王は若干ニュアンスがずれちゃう感じだが、さりとてどう訳すかも難しいところだ(作中では「黒幕」と訳されている章がある)。ポール・ル・ルーという、類稀なる犯罪組織のボスであった男がいかに金を稼ぎ、版図を広げ、人を使い、巨大な帝国を作りあげていったかに迫る過程を描いている。
物語は米国の捜査官がル・ルーの築き上げたビジネスの全貌をつかもうとするところから始まる。ル・ルーはオンライン診療の仕組みを悪用して、薬局ネットワークと処方箋を書く医師のネットワークを自力で作りあげてそれを接続し、患者を募る仕組みを作った。医師は患者を直接診ることなく処方箋を書く。薬局も患者に会うことなく薬を処方し、患者に薬品を送る。ル・ルーと、ごく一部のものにしかそのビジネスは見えていない。医師も薬局も、自分の見えていない部分ではしかるべきことがしかるべく行われているのだろうと信じていた――少なくともそういうプレイヤーは多かった。だが実際には、自称患者が医師の診断無しに望みの処方薬を購入できる全米規模のシステムがまわっていたのだ。ゼロ年代から米国に蔓延し始めた鎮痛剤中毒の蔓延に、個人レベルでは最大の貢献を果たしたのがル・ルーであったと言っても過言ではないらしい。捜査官は偽名を使ってこのシステムに注文を出し、その通りの薬物が実際に届くことを何度も試した。
このシステムの、少なくとも途中まではぎりぎり法に触れずにル・ルーはやってきた。システムでは違法薬物は扱わなかったのだ。しかしそうやって稼いだ金でルルーはさまざまな犯罪に手を染め始める。いろんな国に食い込んで武器や麻薬や覚醒剤の取引をしたり、傭兵まがいの人間をあちこちで雇って暗殺部隊まがいのものを組織したりもしていたらしい。ユニークなところではソマリアで漁業を始めようとしたりもしていたようだ。赤道近くの港に冷凍倉庫を建設して維持するコストを見落としていたのか、計画は途中で見捨てられ省みられることはなかったそうだが。あらゆることを自分で把握したがり、帝国全体の姿は本人以外の誰にも見ることができなかった。
ル・ルー本人は南アフリカ生まれ。比較的裕福な家に生まれ、少年時代は明るく周りを幸せにする子供で、親戚たちの間ではものすごくかわいがられ、ほとんど崇拝している者すらいたという。長じてからは比較的内向的に育ち、プログラミングに熱中して、だんだん周りを見下すようになっていった。20 歳でイギリスに渡り、プログラミングで職を得るが、ほどなくしてアメリカへさらに移っている。プログラミングの技術はかなり高いものがあったようで、そっちの世界では著名な暗号化通信ソフトの開発にも深く関わったのではないかとも言われているらしい。そこから冒頭の薬物販売システムまではまだ多少のギャップがあるが、技術的には確かなという以上の裏付けがあったようだ。
捜査官や警察官といった公的な人間を除くと、本書に出てくる話のでどころはかつてル・ルーに雇われていた人物の証言が多い。著者はとある殺人事件をきっかけにル・ルーの足跡を追い始めるのだが、その過程で見つかる元被雇用者が意外にあっさりル・ルーのことを語るので最初は当惑したという。とはいえ報復や制裁を恐れて一切語ろうとしない関係者も数多くいたし、調子に乗りすぎて始末された人間もまた数多くいたようだ。そんな中、仮名で登場する幹部クラスの人間の話は基本抜群に面白い。「めちゃくちゃやばい奴に雇われて、その後袂を分かったけどなんとか生き残ったやばい奴」の証言なので面白くないはずがないのだが、たとえばル・ルーに横領を疑われてなんとか殺されずに済んだ男によるとそいつは自分の任されていた金の出入りを1セントまできっちり管理していたのだそうで、その記録をル・ルーに送りつけたら追及がやんだ、なんて話が出てくる。ちゃんとした記録は大事だという話である。
捜査官がル・ルーに届くまで、いろいろな方向から糸をたぐって、たぐっては止まり、たぐっては止まりしながらも、少しずつル・ルーを追い詰めていく。特に中盤以降のスリルはとても現実にあったこととは思えないほどだけど、とうとうル・ルーが当局の手に落ちようかというところで、思いがけない展開が待ち受けている(そしてこちらはいかにも現実という感じなのだ)。
ともあれすげえ奴も居るもんだなという、めちゃくちゃ頭の悪い感想になってしまうが、でもまあそうとしかいいようがない本だった。中々面白いです。