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『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』 リサ・フェルドマン・バレット著/高橋洋訳 紀伊國屋書店,2019-10-31

最初に書いておくと、すごく面白かった。のだけど、感想を書くのはけっこう難しい。
情動ってどういうものだろうか。喜びとか、怒りとか、驚きとか、悲しみとか、そういうもの? ふむ。そうだとして、それって人間が生まれつき持ってるものなんだろうか。世界中の人が、当たり前に共有しているものなんだろうか。――というのがこの本の出発点。従来はそれらは生来のもので、世界中で共有されていると思われていた。そうであるということを示した実験もこれまでに山ほどある。しかし残念ながらそれらは誤りだ、と著者は大胆にも主張する。そもそも人の情動の表出すら一定ではない。「怒っている顔」を正確に分類することは誰にもできない。表情筋をいくら分析しても、これが怒りの表情だというものを同定することはできないというのだ(これは著者の主張によれば実験で確かめられている。)。あるのは身体の反応だけ。外界からの刺激に対して身体は反応する。その反応について、わたしたちは少しずつ、その反応が自分にとってどういう反応であるのか――すなわち、それがどのような情動であるのかを学んでいくのだという。幼い子にとっては反応は快か不快かしかない。その不快が「悲しい」なのか「きもちわるい」なのか「おなかすいた」なのか、本人はそれを弁別することができないから、ただただ泣き叫ぶ。周囲の大人がそれに対応して、おむつが汚れていれば「気持ち悪かったんだね」、ミルクをぐいぐい飲めば「おなかすいてたんだね」、と分類する。そのフィードバックを受けて、幼い子は「ああ、これは『きもちがわるい』なんだな」「これは『おなかがすいた』なんだな」というように自らの反応を情動として認識していく。これは子供を見ているとかなりのところまで納得するところではある(もちろんそれで正しいということにはならないが)。子供の感情や情動は未分化で、娘など見ていると未だに不快を全部怒りとして表出させているようなところがある。それは少しずつ身につけていくものなのだという言説には説得力がある。
自分の身体の反応を誤った情動に結びつけてしまうという事例も紹介されている。著者自身がかつて、あまり親しくない隣の研究室の院生に誘われて気が進まないながらごはんを食べにいったとき、途中で意外にも何回か胸がどきどきしたり頬が紅潮することがあって、あれ、自分では意識してなかったけどわたしこの人に惹かれてたのかもと思い次のデートまで約束して帰ったら、家に着いてすぐ気分が悪くなって吐いた。ほどなくインフルエンザにかかっていたことがわかった……というような話だった。病原体による身体の変化を情動として認識してしまったわけだ。この本には出てこないが(だから本当に適切かどうかわからないのだが)もっとキャッチーな例をおれたちは知っている。“吊り橋効果”だ。あれは高いところにいるときの身体的反応をときめきと誤解させようというものだが、原理としては同じだ。情動があって身体が反応するのではない。身体が反応して、それをなんらかの情動として理解するのだ。
だから、その文化に固有の感情、というものが存在する。本書ではいろいろな例が挙げられていたが、日本語の例もふたつほど入っていて、ひとつは「ありがた迷惑」だった。もちろん名前がついていないだけで、ありがた迷惑という状況は多くの文化に共通するものだし、その言葉が無いからといってそういう状況におかれた人がなにも感じないわけではない。だけど、そういう情動の概念を持っていることで、その人はより明確に自分の反応を認識することができる。

という感じで、個人的には説得力があると感じたし、面白いと思った。
それにしても、脳神経学についてはやはり専門家の間でも人によって主張する説が大きく異なっていて、素人としては困ってしまう。一番顕著なのが局在論と全体論の対立で、本書の著者バレットはかなり全体論寄りのようだ。局在論側の人は平気で fMRI でこうだったからみたいな話をするし、全体論の人はそんなの意味ないだろぐらいのスタンスをとる。それだけまだわかっていないことが多いということなのだろうけど、なかなかもどかしくもある。