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『「第二の不可能」を追え!――理論物理学者、ありえない物質を求めてカムチャツカへ』 ポール・J・スタインハート著/斉藤隆央訳 みすず書房,2020-09-03

この日本語題どうなんでしょうねえ。著者は「不可能」には二種類の意味があるという。第一の不可能は理論上ありえないことで、理論が正しい限りはそれは単純にあり得ない。もうひとつ、第二の不可能と呼ぶべきものがあって、それは「これまでの経験知から演繹すると起きるはずがないこと」ぐらいのニュアンスで使われる「不可能」のことを指す。ふたつは似ているけど実際には大きな隔たりがあって、著者は第二の不可能はむしろチャレンジすべき対象になると考えている。こう書くとなるほどと思うけど、タイトルだけじゃこんなことわからんよね。「ありえない物質」というのもちょっとあいまいで、それも含めてどうなんだろうと思う。(しかし今更ながらおれ日本語題にこだわる傾向があるな)

結晶というものがある。物質がある程度以上の大きさにいたるまで規則正しく並んでいる形態、を指す言葉なのだけど、実は結晶がとりうる並び方はかなり限られていることが知られている。そして、結晶の持つ対称性もまた、非常に限定されたものしかない。結晶の電子線回折像は 1, 2, 3, 4, 6 回いずれかの対称性しかない。たとえば「4 回対称性」なら 90°回転させても同じ並び方になり、それを4回繰り返すと元の位置に戻るものを指す。ところが、5回対称性を持つ結晶は自然界には存在しないのだ。同様に 10 回対称性を持つ結晶も存在しない。
そしてここで冒頭の不可能が登場する。この不可能は第一の不可能か第二の不可能か? 著者は第二の不可能だと考えた。なれば、まだたまたま見つかっていないだけで、本当に存在そのものがあり得ないわけではない。

ペンローズ・タイルという平面を充填する不思議な図形があって、著者はこれを足がかりに立体への拡張を理論的に考えはじめる。幾人かのアイデアが積み重なってそれを立体にも拡張できるようだという理論的裏付けが形作られていくのだけど、ここがかなりわくわくした。ペンローズタイルを平面に隙間なく敷き詰める時に、タイルの決められた位置にあらかじめ(辺から辺までの)線分を引いておくと、その線分が連続したタイルの上で直線をなすように並べるだけで平面を埋められる、という方法があって、それを発見した人がフランスのアマチュアの数学者だったらしいんだよね。アマンというその数学者は、才能にあふれていたんだけど極端にコミュニケイションが苦手で大学には籍をおきながら卒業できず、郵便局員をやりながらペンローズタイルの研究を続けてたらしい。そしてその直線(本書ではアマン・バーと呼ばれている)を発見した。そして、立体でもそれに相当する「アマン平面」みたいな概念があると判明する。ただ、著者が連絡をとりはじめて、一度だけかろうじて会ってからほどなく、アマンは亡くなってしまったのだそうだ。栄光なき天才たちみたいなエピソードである。

んでまあいろいろあって人工では「準結晶」という5回対称性を持つ物質を合成することに成功して、そこから各国の研究機関や博物館に保管されている様々な鉱物の電子線回折像を調べて、見落とされているだけで天然にもそのような物質があるのではないかと著者たちは探しはじめる。そして数少ない事例から細い糸をたぐるようにひとつの物質にたどり着き、それがカムチャツカ半島のある川で採取されたものであるらしいことを突きとめる。ならば、あらためてそこにおもむいて、今度は確実にそこで採れたものであると言い切れるサンプルをとってこようじゃないか。
ここから先はまあ、読んでのお楽しみだけど、今度はフィールドワークを全くしたことがない著者(タイトルにある通り本業は理論物理なので、フィールドワークはない)がカムチャツカのとんでもない僻地に乗り込んでいく冒険譚になってそれはそれでけっこう面白いんだよね。そこは本当にすごいと思う。数学、物理、地学、鉱物、さまざまな分野にまたがった研究と発見の物語で、これほど面白い対象に出会えて結果を残せるということは研究者冥利に尽きるだろう。楽しい本でした。