黄昏通信社跡地処分推進室

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[最近の]『スポーツを変えたテクノロジー―アスリートを進化させる道具の科学』 スティーヴ・ヘイク著/藤原多伽夫訳 白揚社,2020-09-15

これはなかなか面白かった。スポーツに用いられる道具がどのように進化し、いかに記録を向上させてきたかの歴史を、さまざまなスポーツにまたがって描いた一冊。
たとえば古いところでは、古代オリンピックではスタート用のバリアーが使われていた、なんて話が出てくる。短い石の柱をコースの両側に立て、その二本の上にロープを渡す。そして同時に柱を倒すと、ロープが地面に落ちてスタートが切れるというわけだ。古代オリンピックを再現した短距離走イベント、というのが毎年開催されていて、著者もそれには参加してみたらしい。地下道を通るところでは(地下道があったのだ!)かなりテンションが上がったとのことだった。
有名な話では、ゴルフボールのディンプルがある。初期のゴルフボールはつるつるだったのだが、なにせもろかったのですぐに傷がついた。だがゴルファーたちは傷ついたボールを砕けるまで使ったという。なぜなら傷がついているボールのほうが明らかによく飛んだからだ。それで、ボールメーカーはそのうちわざとでこぼこのあるボールを作って売り出した。……とまあこの辺までは知っていたのだが、このボールを作るときにはまだ発明されたばかりの風洞が使われていた、という話は知らなかった。そのメーカーでは「自動ボール打ちだし機」とでもいうべき機械を自作して試作したボールの飛び具合を調べる一方で、風洞で気流を観察して適切な形を探っていったらしい。おそらく今作ってもこの工程は本質的にはあまり変わらないのではないかと思う。先進的な思想とその実装には舌を巻く。
道具のもたらす記録の向上にもいろいろな問題がともなう……こともある。やり投げは一時期槍が飛ぶようになりすぎて、規格を変えざるを得なくなったそうだ。競技場の広さは有限で、万一そこをはみ出したらトラックを走っている選手に刺さってしまう。水泳用の水着が物議をかもしたのはご記憶にある方も多いだろう。Speedo 社のレーザーレーサーだ。あれはあまりにも大きな記録の跳躍をもたらしたため、さんざん紛糾した末に 2010 年に禁止となった。ところが、2008 年~2009 年にレーザーレーサーによって出された世界記録はそのまま残されることになったため、それらの記録は長く世界記録として残ることとなった。著者は率直に、禁止した時点で世界記録も 2007 年のものに戻すべきだったと述べている。そういえば、特に女子陸上の記録って 80 年代ぐらいに(おそらくドーピングで)樹立された記録がいまだに残っていたりして、ああいうのって扱いが難しいなと思うんだけど、水着については現在のルールで禁止のものを使っていたことは確かなので、勝利を剥奪する必要は全然ないけど記録は参考記録扱いに落とす、みたいな方法はありかもしれない。

著者は最後にスポーツで用いる道具の中でこれまでに発明されたもののうちもっとも重要なものはなにか、という問いを立てて、加硫法によって作られたゴムではないかと書いている。実は中南米では加硫法が西洋よりはるかに早く発見されていたらしく、それで作った“ゴムボール”でフットボールをしてたなんて話も本書の序盤に出てくるのだけど、その後あらためてグッドイヤーが加硫法を確立したことで様々なものが作れるようになった。応用範囲は本当に幅広かったはずだが、スポーツの分野でも極めて広く利用されたであろうことには疑いの余地がない。どれかひとつというのがそもそも無茶な問いなので、なればこの答えもありかなと思う。
道具の進歩のみならず取り上げられたスポーツの歴史や事情も垣間見える、面白い本だった。