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『氏名の誕生――江戸時代の名前はなぜ消えたのか』 尾脇秀和著 筑摩書房:ちくま新書,2021-04-08

ちょっと話題になった本(という、個人的な印象)で、その通りけっこう面白かった。江戸時代までの人名がどのようなものであったのかの概説と、それがいかにして現在の「姓+名」で構成される人名に移行されたかということについて語られる。
江戸時代までの名前については、まず公家とそれ以外で大きくシステムが異なる。それ以外というのは武家とさらにそれ以外(町人・百姓など)に分かれるのだが、公家とそれ以外との間に横たわる差異ほどの大きな違いはない。
公家の名前は大きく五つの部分からなる。第一が家の名前で、これは「称号」と呼ばれた。比較的現在の苗字に近い概念と言える。第二は官名。公家においては官名が事実上の個人名となっていた。それから「氏」。これは一族名なので源とか藤原とかいう感じ。そして「姓」。これは氏に附属する爵位的要素で、朝臣みたいなのがこれにあたる。そして最後が「名」「名乗」などと呼ばれた個人名だが、実際に名乗ることは一切なく、ほぼ署名捺印の時にだけ使ったのだそうだ。
五つあったからといって五つ列挙する事態はなく、日ごろ使うのが前のふたつ、文書で使うのが後ろの方、という感じで用途もはっきり分かれていた。それはそれとして官名というのには一応機能もあって、朝廷で割り当てられているその人の疑似官職(実際にその官職の仕事をするわけではない)がそのまま官名になっていたらしい。そしてそれが個人名のようにも扱われていた。実際どう呼ぶかというのはまたその人の位によっても左右されたらしく、百人一首を見るとわかるように位の高い人ほど回りくどい呼び名になっていく(「鎌倉右大臣」みたいに)。
公家以外の名前というのもやはり五つの部分からなり、ぼんやりとは公家の名前の部分と対応しているのだが、かなり形骸化や省略が進んでいた。疑似官職は名前だけになるし、氏や姓を持つのはほぼ武家だけ、名乗も普通の町人は持っていないことが多かったようだ。町人となると名前に使われる字や語句も決まっていて、いまのように意味や思い入れのあるネーミングというのもなかったらしい。長男に三郎とか五郎とかつけても平気だったとかで、社会的階層が低いほど単なる記号としての側面が強かった。代々同じ名前を名乗るとか、決まった字を親からもらうとか、そういうのはあるにはあったみたいだけど。
それが明治に入って、一気に風向きが変わった。倒幕、王政復古というのはすなわち公家の復権に他ならない。公家たちはあらゆる人たちに公家式の名前を名乗らせようとした。さらに彼らは「本来のありかた」にこだわった。疑似官職を否定し、実際に就いている官職を名前として使うことを求めた。これは混乱を招いた。同称号で同じ職位の人は言うなれば同姓同名になってしまうからだ。その他にも現在からみれば無意味と思えることに固執した結果、表記方法を二転三転させたうえに、とうとうえらい人たちはこれまでの名前のありかたを全部諦める羽目になった。そして、「姓」(どれかと言えば称号に近い)と「名」(名乗に近い)をひとつずつ名乗るべし、という風に定めたのだ。だからその頃の名家の称号が今でも何となくやんごとない雰囲気の苗字として残っているし(「西園寺」「一条」など)、称号を持たなかった町人たちは適当な姓を名乗ったので、この時に日本人の姓の種類は二十倍近くに増えたと言われている。夫婦同姓とかが決まったのはこのあとだ。だからせいぜい 150 年ぐらいしか歴史がないんだよね。もっとも、100 年も保てば立派な伝統、ともいうけれど。

昔の名前が思っていたよりはるかにめんどくさかったということがわかったのは面白かった。そして明治に入ってからのぐだぐだの紆余曲折。最後はほとんどやけくそでシンプルにしてしまったように見えるけど、結果的には悪くなかったのかもしれない。