さらにまずいのは、理論物理学自体が巨大なたこつぼと化しつつあることだ。研究者の身分は世界的に不安定になり、公募の研究費に応募しなければ研究することもままならない中、既存の理論を発展させたり補強したりする研究のほうが研究費がつきやすいのだ。そのような状況で革新的な理論を打ち立てようとすることはそのまま自分の研究を危機にさらすリスクになる。実験からは中々新しい証拠が得られない状況が続くと、ますます現在の標準理論がデファクトスタンダードのようになっていく。
しかし、美しさってなんなんだろう? と著者は繰り返し問う。物理学では、ある体系の中に現れる質量やエネルギーの比率がキリのいい数字になっていたり、必要に応じて導入される定数があんまり桁の大きなものではなかったりすることが要求されるという。単位というのはすべて恣意的なものなので数字のキリがいい意味はないが、一方でたとえば質量の二乗の比率が世代ごとに一定、みたいな規則性は意味があると考えられている。でも、それって本当に意味があるんだろうか。この「美しい」という尺度自体はもちろん数学自体に内在されているわけではない。そんな数学的都合に物理が付き合う必要はないのではないだろうか。これまではたしかに美しさを使ってうまく予測できたこともあったけれど、それがいつまでも続く保証はどこにもないのではないか。
そういう根本的な疑問を抱えて、著者は様々な物理学者にインタビューを重ねる。主流となっている標準理論を支持する物理学者にも、そうでないオルタナティヴな理論を追求する物理学者*1にも。さまざまなリアクションが返ってくるが、著者の疑問に答えてくれる人はいない(それはある意味では当たり前なのだが)。そしてそのことこそが、現在の物理学がはまりこんでいるたこつぼの存在を示しているように思われるのだ。
著者の主張がどれほど妥当であるかは正直わからない。それでも、根本的な疑問にそれなりに筋が通っていることはわかる。いずれにせよいつかは答えが出ること、なのかもしれない。だけど、どこか不安にさせられる言説であることは間違いないし、研究者たちはもうほんの少しだけこの疑念に向き合ってもいいんじゃないか。少なくとも自分の中にはこの疑問はインストールされた。素粒子物理学の話を聞くときは、この話とこの本を思い起こそう。