黄昏通信社跡地処分推進室

黄昏通信社の跡地処分を推進しています

『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 マイケル・サンデル著/鬼澤忍訳 早川書房,2021-04-14

サンデル先生の本。中途半端に内容をつまみ食いしてたせいかすごい中途半端に読んでしまった。ここ数十年で少なくとも米国においては入学できる大学の格と実家の太さの相関、そして学歴と生涯年収の相関がものすごく大きくなってしまったというファクトをてこに、その弊害とそれへの対策を語る。大学では基本的には公正な入学選考を行っているのだけど、成績評定で要求される水準が高すぎるために、そのための対策を講じないととても無理で、たとえば苦学生がアルバイトをしながら大学入学費用を稼いでなんて形ではとても上位の大学には入れなくなっている。にもかかわらず、入学した学生は確かにものすごい努力を積み重ねているので、それを自分の努力のおかげだと思うという話。こういう話聞くと日本の大学入試まだけっこうましかも知れんと思わなくもない。めちゃくちゃ頭よければ受かるからね。
で、それのなにがまずいかというと、階級が固定化されることがひとつあって、金持ちの子しか金持ちになれない、金持ちの子しか公的な要職につけない、ということになる。人々のうち金持ちなのはほんの少しで、圧倒的な多数は金持ちではない。その人たちを治める人たちが金持ちばっかりというのは、やっぱりよろしくない。
もうひとつは、その人たちが自分が上の階層にいるのは自分の努力が最大の理由なのだと信じていることそのものがよくない。それは簡単に自己責任論につながるから。そして上に立つ人が自己責任論をふりかざすのは社会によくないから。
まあ、そうだろうなと思う。おれは自分が今の暮らしをできているのは基本的には運がよかったからだと思っているけど、それでも自分の能力に自負がないわけではない。上手くいってない人は努力が足りないからだと全く思ったことがないかと言えば明らかにうそになる(し、それを普段口に出さない程度の分別はある。やれやれ)。だから、そうだろうなと思っても、この本を読む意味はあるのだろう。
それでこれへの対策みたいなことも一応少し書かれているのだけど、んー、どうなのだろう。たとえば「大学入学選考を抽選にしてはどうか」みたいなのがあったりする。「運である」ということを明示することはあるいは意味があるかもしれない、けど。