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『宇宙の春』 ケン・リュウ著/古沢嘉通訳 早川書房:新☆ハヤカワ・SF・シリーズ, 2021-03-17

ケン・リュウ日本では四冊目の短篇集。おれ三冊目の時点で前の二冊よりは落ちるって書いたけど、まあこれも最初の二冊に比べてどうかと問われれば落ちると言わざるを得ない。
「宇宙の春」は大づかみのアイデアの一篇。異常にスケールの大きい抒情性とでも言えようか。
マクスウェルの悪魔」は太平洋戦争中に日米で引き裂かれる女性研究者の物語。複雑な背景を持つ主人公の運命を沖縄という土地も含めて見事に描いていて、これをケン・リュウが書いているということに驚かされる。かなり苦い話ではある。
「ブックセイヴァ」は電子書籍に読者の注文通りの修正を加えてしまうプログラムにまつわるエピソードを描いた一篇。具体的には、たとえば原書のマイノリティへの配慮が足りない描写の部分を“正しく”修正してくれたりするのだけど、さてそんなものがあったとして何が起きるか、ということが描かれる。本というのは紙に刷られていて内容は不変だ、というのは長いこと自明だったが、メディアが変わればそこに介入する余地が生じるのは当たり前と言えば当たり前のところ。その介入が読者側から、それも基本的には“正しい”ものを求める行為として行われるというところが面白い。そしてそこに介入が生じたときには、今度は創作物と表現、作者の意図と読者の受容、などの間に紙の本では暗黙のうちに成立していた関係こそが崩されていくことになっていく。ケン・リュウらしい手堅い SF でこれはかなり好き。
「思いと祈り」はある事件に巻き込まれて命を落とした若い女性について、その家族を中心にその後(インターネット上を中心に)起きたことを短く視点を変えながら描いていく。残された家族同士のディスコミュニケイションと、ネット越しに悪意をぶつけてくるトロールたちに対する対応を誤ったことから、状況は坂道を転げ落ちるように悪化していく。少し先に確実にあるだろう未来と悪意の具体的な描き方が見事で、そういうところの手つきの確かさではケン・リュウをしのぐ書き手はそういないのではないかと思う。読後感がいいとは言えないが鋭い切り口だ。
「充実した時間」はメーカーに入社した主人公がプロダクトを通して世の中をよくしようと奮闘するが……というような話。同僚のキャラクターがよかったが、わりと凡庸な展開かなと思う。
「灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹」はポストアポカリプス設定だが実質的にはファンタジイ。派手な設定を振り回しながら展開する豪快な話だが、後半で急に明らかにあれじゃんというエピソードが出てきて初めて翻案だということに気がつくという、ちょっと面白い体験をした(というねたばらし)。しかしまあ、しっかり読んでる人なら気づくもんだったりするのかな。
「メッセージ」はずっと離れて暮らしていた親子が初めて一緒に過ごす時間を描く。なんか SF ってこういうシチュエイションちょいちょい見る気がするんだけど気のせいだろうか。訳者解説の通り、ちょっとこれでいいのかなというストーリー展開だった。
「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」が最後を飾る。タイトルを見てわかる通り、テッド・チャンの「顔の美醜について――ドキュメンタリー」の形式にインスパイアされて書かれたものだとのこと。ある技術で人類は過去に起きたことをほんとうに見てきたように知ることが可能になるが、「データの転送量の都合上だれか人間が体感する形でないと知ることができない」「いちどある時間について見てしまうとその人は二度とその時間を見ることができない」という制約があって、見たものを検証するということが原理的に不可能にされている。さて、そのような技術があったとして、それをどう歴史研究に活かせるかというのはまず思いつくテーマだと思うが、ケン・リュウが凄いのはそこからさらに踏み込んで、七三一部隊を中心とした戦争責任と戦後補償を題材にしていることだ。というわけで日本人読者と中国人読者には殊更に大きな意味を持つ短編だと思う。特定の人物に視点を寄せないドキュメンタリーの語り口がこの題材にふさわしく、かなり思い切ったことも書かれているが不快感はなかった。訳者の古沢嘉通は「ケン・リュウが日本でも確固たる地位を築いた今だからこそ収録できる短編」というようなことを書いていたが、確かにこれが最初の短編集に入っていたらちょっと身構えていたかもしれない。ともあれ一筋縄ではいかない題材を力強く描いていて面白かった。
根本的にはこれまでのを読んだ人向けなので、ケン・リュウ未読の人はおとなしく最初に出たやつから順番に読んでいくといいと思う。

【収録作品】
宇宙の春 マクスウェルの悪魔 ブックセイヴァ 思いと祈り 切り取り 充実した時間 灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹 メッセージ 古生代で老後を過ごしましょう 歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー