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『DOPESICK アメリカを蝕むオピオイド危機』 ベス・メイシー著/神保哲生訳 光文社,2020-02-19

オピオイド。なんか聞いたことある、ぐらいの感じだった。あれでしょ、米国でけっこう蔓延しててやばい薬なんでしょ、という程度。しかしこの本を読むと、その表層よりはるかに悲惨な事態が進行しているのだということがわかり、大げさに言えば戦慄する。オピオイドの正確な定義は「ケシから採取されるアルカロイドや、そこから合成された化合物、また体内に存在する内因性の化合物を指す」(Wikipediaより)ということなので、要するにモルヒネ、あるいはそれに類する麻薬のことだ。古くからある薬だし、効くことも正しく使わないと危ないこともわかっている。なのになぜこれがいまさら蔓延して社会問題になっているのか。1990年代にパデューという製薬会社が販売を開始したオキシコンチンという薬が引き金を引いたと本書では書かれている。これはオピオイドの一種オキシコドンの徐放剤(じわじわ体内で放出されるやつ)で、パデューはこの薬は副作用の少ない画期的な鎮痛剤だ、現代医療には痛みのコントロールという意識があまりにも欠けている、正しく処方すれば依存性はほとんどない、などと宣伝し、湯水のように広告費を用いて半ば接待のような怒涛の営業活動を展開して多くの医者にオキシコンチンを売り込んでいく。たとえばパデューが主催してリゾート地で「学会」を開く、なんてのは典型的なやり方だったらしい。宣伝内容はもちろん大嘘だ。だってざっくり言えばモルヒネなのだから。20世紀も末になってモルヒネに依存性がないとか言ってたらあほかきちがいである。少なくとも厳密な管理の下、かなり注意深く用いなければならない薬であることは疑いの余地がない。それが、徐放剤にはなっていたとはいえ、普通に薬局で処方されて患者に服用が任されていたのだ。モルヒネやぞ。
さて、かくもカジュアルにオキシコドンが処方されるとどうなるかというと、何割かの人が依存症になる。もっとも初期に乱用に気づいた医師は、依存症の人の袖口に水色とオレンジ色のしみがついていることで異常な事態に気づいたという。初期のオキシコンチンの被覆は水色とオレンジで、いったん口に含んで溶かしてから吐き出して袖でこすって被覆を剥がす、というのが当地のジャンキー流だったらしい。袖で剥がすなや。ありふれた怪我や、ちょっとした手術の後の痛み止めとしてオキシコンチンが処方され、医師がいい加減な分量を出し、それをきっかけに依存症に陥るというのがひとつの典型的なパターンだったらしい。あまりのことに呆然としてしまう。
前半はパデューの責任を追及する医師や検察官たちの活躍が主に描かれる。不謹慎だが、正直ここはけっこう面白い。タフな捜査官が執拗に証拠を集め、ようやく起訴まで持っていくのだが、残念ながらカタルシスのある展開は待っていない。パデューには巨額の罰金が科されるが、それを巨額とするならそれまでに稼いだ金は宇宙規模的金額とでも言わなければならなくなってしまう。オキシコンチンはやがて製法を変更することを義務づけられ、ジャンキーたちの好物からは外れていくのだけど、残念ながらオピオイドは他にも存在するし、ひとたびディーラーに目をつけられた地域には今度は本物のドラッグが流れ込み始める。
中盤から後半は、何人かの命を落としてしまった中毒者と残された友人や家族を軸に、悲惨な実態がこれでもかとばかりに描かれる。ひとたび依存症に陥ってしまうと人間は信じられないようなことをするようになる。離脱症状の余りの辛さに、倫理とはかけ離れたふるまいをするようになるのだ。家のものを勝手に売ったり、家族のクレジットカードで買ったものを売ったり、車上荒らしまがいのことを始めたりして、なにがなんでもドラッグ代を作ろうとする。
また、そうなってしまった人が救われる道が今の米国ではあまりに細いことも執拗に書かれる。お金があれば更生施設に入ることはできる。しかし安くはない。草の根的な安価な更生プログラムは十分な数がなく、ほとんどが順番待ちになってしまう。薬物がらみでの逮捕歴があるとまともな仕事から排除されてしまうし、そうすると薬を盗んで売ったり、ひどいと売人の下請けみたいな立場になったりということになる。また、著者の主張によれば、離脱症状がつらいオピオイドはいきなり断薬しても患者が耐えられない可能性が高いため、危険性が低いオピオイドに切り替えながら徐々に断薬していく薬物維持療法が最適とのことだが、一切の薬物服用を認めない施設やプログラムが少なくなく、せっかく更生の入り口までたどり着いても救われずに終わってしまうこともしばしばであるようだ。

それにしたって、製薬会社と医者のモラルの無さには目を瞠る。いやー、これ、だめでしょ。と思うけれど。それと、FDAの体制にも問題があると書かれていた。認可と規制を両方ここが司っているらしいのだよね。それはある程度仕方のないことだと思うけど、どうもその距離が近いらしく、認可された薬をすぐに規制対象にすることはつまり認可が誤りだったと認めるに等しいので、なかなかそのような判断を下しにくいのだという。これは意外だったというか、なんかすごく日本的な話だなと思ってちょっと面白かった。米国だったら身内だろうと何だろうと駄目なものは駄目って言い切るんじゃないの?と勝手に思っていたけど、そうでもないらしい。
一応救いらしきものはあって、原書が書かれた時点ではパデューには鉄槌は下っておらず、のうのうと逃げ切ったみたいな感じで書かれているのだが、実際にはその後破産している。
米・オピオイド系製薬会社のインシス社に続きパーデュー社も破産申請 -- JC net
https://n-seikei.jp/2019/09/post-61665.html
それでも経営者一家は「経営権を手放す」だけで済むのだし、直接の被害のみならず全米に禍を撒き散らしたのだから、こんなものでは全然足りないとも思うけれど、わずかな罰金を払っただけというよりはいくらかは留飲の下がる結末だ。それにしたって、全体としてはあまりにあんまりだ、という話だったな。