黄昏通信社跡地処分推進室

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思い出し笑いの純粋さ(記憶の中の感情)

先日チーム鎌倉で集まった時にHが久々に「逆再生芸」を披露してくれた。これは音声データの逆再生を口で行うもので、本人曰く「閑な時にパソコンで散々やってた」とのことだが、それで誰でもできるようなものではない。Hはロシヤ語の発音もやたらいいので、要するに耳がよくて口も器用なのだろう。
それで、翌日にそれを思い出した時に、いやありゃ面白かったなあ、と思わず吹き出しそうになってしまったのだが、そこではっとなった。
おれはいま、なにが面白くて吹き出しそうになったんだろう?
昨日の会話の流れを思い出した。そこまではいい。でも、肝心の逆再生芸を、おれはもちろんできない。だから会話がそこまで来ると、おれの脳内ではなんとなくそれっぽい歪んだ抑揚とリズムのトラックがむにゃむにゃと流れているだけなのだ。それは当人の芸に遠く及ばない筈だ。なのに、おれは吹き出しそうになるほど面白かった。
以前荒井君輝が「思い出し笑いは最も純粋な笑いである」と書いていた。それは、周囲のテンションや状況に左右されない時でも笑えるから、ということだ(多分)。これを、一理あるなと思ってMに話してみたところ、「いや、でも結構面白かったってのも併せて記憶してるんですよね」というような答が返ってきたのを憶えている。どうなんだろうか、と思っていたのだけど、どうやらこれについてはMの方が正しそうだ。
もちろんたった一回のことで、一般化するわけにはいかない。でもそう意識して改めて考えてみると、ある記憶にある感情が伴うとき、記憶から事象がリプレイされてそのリプレイが感情を呼び起こしている、というよりは、感情が事象に(ある程度)付随した形で記憶に格納されていて、事象と感情を一緒にリプレイしている、というメカニズムの方がぴんと来る気はする。
まあそんなわけで、Hさんにおかれましてはまた逆再生芸聞かせてください、ということで。