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『自生の夢』 飛浩隆 河出書房新社,2016-11

自生の夢

自生の夢

寡作な著者の、実に十年ぶりの著作。収録作はいずれも発表はされていたが、おれは既読のものも未読のものもあった。


表題作が――おれはまだ呑み込みきれていないのだけど――すごい。
作中の世界では、とある検索エンジンがあらゆるコンテンツを呑み込んで、コンテンツ同士を参照させ、連関させ、評価してもうひとつの世界とでもいうべきデータベース「GEB」を作り上げてしまっている。いっぽうで、Cassy と呼ばれるテキスト生成エージェントがコモディティ化し、人々は自分の生活を Cassy によってテキスト化して GEB に放り込むことが当たり前になっている。もはや誰にも理解することが不可能になった GEB の内部で、人知れず存在をはじめるものがあった。〈忌字禍(イマジカ)〉と名づけられたその存在は、やがて現実世界にも影響を及ぼし始める。
SF でよくある仮想空間は、仮想の世界をコンピュータでシミュレートして、その計算の結果として存在するけれど、本作(と、本書に収録された一連の作品群)で描かれる仮想空間は、テキストで描写されることによって存在する。膨大なデータと高性能のテキスト生成エージェントによって書かれた文章の中に世界が現出する。「書かれた文章の中に存在する世界」というのは、つまりフィクションの中の世界そのものなのだけど、作者はそれを大真面目にこの世界と地続きのものにしてみせる。思えば、00 年代に著者が書いた『グラン・ヴァカンス』『ラギッド・ガール』に登場した仮想空間は、その空間を体験する人間(正確には「似姿」)の感覚器が生成して脳に送る信号だけが敷き詰められているという、これまたアホみたいに倒錯した世界の物語だった。なんという……、ホラ話だろう。
この短編では、(おそらく)〈忌字禍〉を生みだす大きなきっかけになった、稀代の文筆家間宮潤堂と天才詩人アリス・ウォンのふたりが登場するが、作中世界で起きたことはまだ謎が多い。願わくはこの世界を舞台にした長編を読みたいものである。


他の作品については簡単に。
「海の指」は『ヴィジョンズ』にも収録されていて、そちらで書いたのでそちらを参照。個人的には本書の収録作の中でもベストで、ただそれはおれが「『グラン・ヴァカンス』の飛浩隆」を求め続けてしまっているからなのかもしれない、とも思う。作者はもっとはるか先まで行ってしまっているのかもしれない。とはいえ素晴らしい作品であることに留保の余地はない。読め、としか言えない。
「星窓 remixed version」は旧作のリメイクらしい。「星窓」の概念は魅力的だったが、短編としてはいささか散漫な印象を受けた。
「#銀の匙」「曠野にて」「野生の詩藻」はいずれも「自生の夢」と共通の世界を舞台にした短編たち。アリス・ウォンにまつわるエピソードを書いた掌編とでもいうべき短さの作品で、どれも少し愛らしい味わいがある。
「はるかな響き」は既読で、これは作中で「僕」がサラダを作るシーンがひどく印象に残っていた。著者の描く食事シーンはひとつの例外もなく素晴らしいのだけど、この作品のそれは(正確にはつまみ食い以外はしていないので食事シーンではないが)際立って旨そうだった。今回あらためて読んでもやはり旨そうだった。そしてあとがきで参考図書にサラダの本が一冊だけ挙げられていてびっくりしてしまった。サラダの本一冊あったらこれだけ書けるのであれば、料理の本をひとそろい渡したら満漢全席小説みたいなものができるのではないかと思う。


ともあれ本書も素晴らしかった。いま願うことはひとつ、いやふたつだ。
どうか著者の新作がまた読めますように。そして今度は 10 年よりはいささかたりとも短い間隔でありますように。