黄昏通信社跡地処分推進室

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熱と推敲

栞の方でコメントもしたんだけど、もう少し書いておきたいので書く。


文章を書き直すことで、感情の入りすぎていた部分は削られて、気持ちだけが空回りしていた言葉は、もっと別のフレーズに置き換えられる。だからこれはきっといい文章なのだ──すくなくとも、推敲前よりはずっと。でも、このテキストっておもしろいのかな、とわたしはおもう。きっと、文章が当初に持っていた熱は、どこかへ逃げてしまっている。
少し話がずれるのだが、昔小説みたいなもの(以下「小説」とす)を書いてた頃に似たような経験をしたことがある。「こんなものを書きたい」と思ってすぐに書き始めると、大体失敗するのだ。まあ少なくともおれはそうだった。書こうと思ったらしばらく置いておいて、細部を想像したり関連することを調べたりする方がよい。
のだが、長く置いておき過ぎると、これがまたよくない。上手く書き始められなくなっていたり、始めてもすぐに行き詰まってしまったりする。こうなることを仲間内では「腐る」と呼んでいた。周辺に積み上げていったものが逆に窮屈になってしまっていたのだろう。別にアイディア自体が死ぬわけではないのでリセットしてやり直せばよさそうなものだが、なんかもうその頃にはアイディアに対する執着もなくなっている。
似ている気がして書き始めたが、少しどころかかなり話がずれてしまった。とはいえ、時間的なスパンは違うけれど起きていることは似ている部分もありそうだ。なにかをアウトプットしようとするモティヴェイションと、それをできる限り多くの人に伝わる形に整形しようとする試み。どちらもなにかを作るにあたっては必要なのだけど、往々にして後者が前者のよさを殺いでしまうということ。だからといって、完全に衝動のままになにかを作っても、それが受け手に伝わることは稀であるということ。
それでもどこかに、一番ましなバランスはある筈だ、と、おれは考えている。たぶんそれは人によってさまざまだろう。作るものによっても違うだろう。それはまあ、なんとか探すしかない。
オリジナリティは多分、どちらにも宿り得る。思いつくのが得意な人と、一般化するのが得意な人と。思いつき自体が平凡であってもそれを非凡なやり方で伝えることはできるのではないかな。もちろん非凡な思いつきを素晴らしく広く伝えられればそれが理想だけど、それができるようならこんなことを気にする必要もないだろう。