黄昏通信社跡地処分推進室

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あの頃のこと


本棚を整理していたらこんなものが出てきた。旧デザインのマーくんも眩しい、2001 年のマリーンズファンクラブ会員用小冊子。
2001 年というとアルバイト生活3年目、結果的には最終年となった年に当たる。長いことマリーンズファンを自称してきたものの、試合を見たり球場に足を運んだりという活動はさっぱりだったおれが、バイト先の先輩に誘われてちょこちょこマリンスタジアムに行くようになり、ついにはファンクラブに入ったのがこの年だった。先日ファンクラブカードも出てきたが来場ポイントは8点(とりもなおさず来場8回)と実に微妙で、とはいえ当時のファンクラブ特典の仕様なら元を取って余りある程度の頻度ではある。曲がりなりにも就職に向けて活動していた中では悪くない数字かも知れない。
試合は普通に休みの土日にデーゲームを観に行くことが多かったのだが、翌日休みの早番の日などたまに職場から直行することがあった。バイトが上がるのが 16 時 15 分、着替えたり茶を飲んだりして 16 時半過ぎには職場を出て、東京テレポート駅まで歩き、くそ高い臨海副都心線に乗って新木場駅に出る。そこから京葉線を捕まえて海浜幕張へ。球場まで1時間ぐらいで着いたのではないだろうか。
2階の内野自由席に上がると、当時は折りしもエカ政権の2年目(だっけ?)、スタンドはまだほんとがらがらで、一番いい席の辺りでも座席は選びたい放題だった。おれは適当な椅子に腰を下ろし、荷物と買ってきたロッテリアハンバーガーを隣の椅子に置く。おれは靴も脱いで、椅子4席分のスペースに横になる(繰り返すが、がらがらだったのだ。それで正当化される行為でもないが)。早番連勤の心地よい眠気がふうっと訪れる。
そして目を覚ますと夜になっている。わずか数十分の間に俄然暗くなり、照明灯の煌々と灯る中、ちょうど試合が始まろうとしているところだ。おれはゆっくりと身体を起こし、紙袋からハンバーガーを取り出して、かじりながらグラウンドに視線を向ける。そこで試合をしていたのがどんな選手だったか、正直おれの記憶は曖昧だ。黒木はこの年に肩を壊す。ということは、小宮山や伊良部はもう居なかった筈だ。園川もコーチになっていた。藤田はばりばり中継ぎをこなしていた。薮田はまだ先発投手でくすぶっていた。野手は誰が居ただろう。福浦和也首位打者に輝いたのはこの年だったか翌年だったか。初芝清はまだどっしりホットコーナーを守っていた。堀幸一はおれが観に行く試合で何故かよく本塁打を打った。名手小坂誠、この頃は出番の減っていた佐藤幸彦、強肩清水将海。外国人はフランク・ボーリックジェフ・バリー
でも当時おれがひいきにしていたのは後藤利幸だった。いや多分この年は殆ど一軍にも居なかったと思うし、この年か翌年一杯で首を切られているのだけど、とにかく後藤だったのだ。なんでひいきになったのかも憶えていない。オリックスに強いのだけが取り柄の、メガネのピッチャー。右投げでストレートは 140km/h に届かないぐらい。スライダーとしょっぱいフォークが持ち球。おれは一度だけ、後藤が完封で勝つのを球場で見たことがある。珍しく打線もがんがん点を取って、9対0という夢のような勝ち方だった。でも多分、勝ったところを見たのもその1回だけだったと思う。
なぜか、あの頃のことを思い出そうとすると、試合の内容よりも、球場に着いてスタンドに上がったときの感覚を思い起こす。夕闇迫るマリンスタジアムは、球場のほかには空しか見えず、かろうじて外野スタンドの壁に空いた素通しの部分からわずかにのぞく海面が夕日をぼんやりと映していた。湿気と塩分をたっぷり含んだ潮風が、それでも意外なほど涼やかな感触を残して吹き抜けていた。
シーズンが開幕したら、またマリンスタジアムへ行こう。タコスでも喰いながら、のんびり野球を観よう。

# 追記:ジェフ・バリーがキーワードになってて吹いた。すげーなはてな。それによるとバリーが居たのは 2000 年だったようで、1年間違っていた。2001 年はデリック・メイだろうか。