黄昏通信社跡地処分推進室

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妄想

その講師はごく何気なく教室に入ってきた。初講義だと言うのに全く気負った様子も見せず、来ることになっているから、という感じで教壇に上り、てくてくと教卓まで歩いて行った。雑談や内職に興じる生徒たちの中には、講師が来たことにすら気付かない奴も多かった。
長身の部類で、すらりとした体つきだった。まだ割と若いが、シンプルなダークグレイのローブを着込んだ姿はそれなりに様になっている。肩章はこの学校ではあまり見慣れない黄金で、これには軽く驚いた。先生は必ずしも金剛賢者とは限らなかったが、それでも白金までは上がっているのが普通だ。
講師は持ってきた薄いファイルを無造作に教卓の上に置くと、一度軽く室内を見回してから、「さて」とだけ言った。声は体格や顔の骨格から想像するよりは随分低くてよく通ったが、なにかそれ以上に不思議な力を持っていた。レオンやルキアはともかく、タイガまでがそのひと声で正面に向き直っていた。
教室のざわついた空気が急激に鎮まって行くのを確かめるような間を置いてから、講師は妙に深々と頭を下げた。
「はじめまして。マハル・ロミタス・アリシーバと申します。学問1と2を担当します。よろしくお願い申し上げます。」
馬鹿丁寧な挨拶に、いつもは混ぜっ返すレオンも神妙に頭を下げている。どうもこの講師のペースだ。
気に入らないな、と口の中で呟きかけてから、そう言えばこの男の名前をどこかで聞いたことがあるということにふと思い至った。金剛ならともかく、黄金賢者の名前を憶えるほど聞くとは考えづらい。さて、なんだったか――
隣席のカイルの方を見ると、ちょうど目が合った。やはり名前に心当たりがあるのだろう。
と、いきなり教室の前側の扉ががらっと開かれた。この図々しさは、と内心開けた人物を予想すると、案の定ミランダ先生だった。「ごめんなさい。ロミタス先生、ちょっとよろしいですか?」
「え……ああ、はい」
「ごめんねー、みんな。すぐだから、ちょっとだけ待っててね」
「はーい」 ルキアが能天気に手を振る。
アリシーバ先生は面喰らったようだったが、入って来た時と同じように何のニュアンスもない足取りで出て行ってしまった。
僕は何故かそれを見た瞬間に、その名前をどこで見たのかを思い出した。
「あいつ、去年の――」
「そうですね。賢聖杯の本戦に出てました。1回戦負けだったと思いますが」
僕が言いかけたのをカイルが引き取った。どの大会だかまでは憶えていなかったが、こいつが云うんだから間違いないだろう。いずれにしても、“レッスン・プロ”って奴かな、と思ってたがそうでもないらしい。
「ねえセリオス、それって凄いの?」
真後ろの席からユリが、僕たちの間に身を乗り出して訊いてくる。
「当たり前だ。きみ、四大大会全部言えるか?」
「それぐらい知ってるよ」 ユリは勢い込んで指折り数え始めた。「賢竜、賢豪、賢聖、賢王……あれ? 賢王は階級なんだっけ? なんだっけ、あと『賢』がつかないのあったよね」
僕は思わずため息をついた。さしものカイルも苦笑いを浮かべている。
「『斗南』だ。アカデミー生として、それを全部言えないのは本当にどうかと思うぞ」
「しょうがないじゃん、転入生なんだから」
転入は関係ないだろう、と反射的に返しそうになったところへ、いいタイミングでカイルが割って入った。
「大きな大会はどれでもそうですけど、賢聖杯を含む四大大会は特に、出場するだけでも大変です。前回大会の上位入賞者、ポイントで招待されるひとにぎりのランカー、それと主催者推薦枠、そこまでは本戦から出場できますが、それ以外の選手は厳しい予選を勝ち上がらない限り本戦に立つことさえできません。四大大会で本戦に出られるのなら、それだけである程度力があると言っていいでしょうね。」
ユリは肯きながら聞いている。知識に偏りはあるが、基本的には無知でも莫迦でもない。この集中力は――これがまたいつも発揮されるとは限らないのだが――こいつの持って生まれた大きな武器だ。アカデミーに入れる生徒は多くない。編入となれば尚更だ。
僕はちょっとだけサービスしてやることにした。「……まあ、賢聖杯は一番本戦に近い四大大会って言われてるけどな」
「どうして?」
「予選が割と特殊なんだ。全部ペーパーで、好きなサブジャンルを3つ選んでそのジャンルの問題だけ回答するんだが、得点は単にその三つの合計じゃなくて、加重をかけて合計する。一番得点がよかったサブジャンルが一番比重が高くなる。だから、極端に言えば選んだ3つ全部で 60 点が取れる奴よりも、ひとつ 100 点を取れてあとは0点、なんて奴の方が得点が高かったりする」
「じゃあ、なにかひとつすっごい得意ならそれだけで予選通るかも知れないんだね」
「ひとつだけじゃ流石に難しいみたいですけど」 カイルが応じる。「俗には『ひとつ半』と言われてますね。完璧なサブジャンルがひとつと、ある程度取れるサブジャンルがもうひとつあれば、うまく行けば通る可能性はある、とされているようですよ」
「へー、そういう大会もあるんだね」
ユリは深々と肯いた。「いろいろ知ってるねー、セリオスもカイルも」
きみが知らなさ過ぎるんだ、と応えかけて、ふと教卓に立っている講師が視界に入って僕はぎょっとした。いつの間にかアリシーバ先生が戻って来ていたのだ。