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大塚様引退

マイジョッキーを大塚栄三郎にしていたおれさまとしては流石に書かないわけにも行くまい。
逃げの大塚引退「次の夢」は調教助手
ということで、52歳にしてとうとう引退。レースで乗っていないのは知っていたし、藤沢和厩舎に居るのも知ってたんだけど、調教助手になりたくてなれずにいるというのは知らなかった。現役時代からトレセンとは少し離れたところに住んでいて、「いわゆる『厩舎村』があまり好きではないから調教師になろうとは思わない」というようなことは言っていたので、ある程度予定通りではあるのだろう。
ひいきの騎手だったので印象に残っているレースはいくつもあるけど、観ていた中ではヒダカハヤトとのコンビがベストと思う。能力は高いものの気難しく惨敗が多かった馬を2度の重賞勝ちに導いた手綱捌きは鮮やかの一言だ。そして、それ以上に2着だった 1992 年のエプソムカップが素晴らしい。マイネルヨースが引くかなり速いラップを、大きく外を回る2番手で追走して、そのまま一杯一杯に粘りこんだレースなのだけど、創造性と勝負度胸と馬を御す技術が高い水準で現れていた騎乗だった。しかもそれがヒダカハヤトに初めてまたがったレースなのだ。まさしく魔法のようなレースだった。
GI勝ちはなく、グレード制導入以前も含めて一番格の高いレースはサニーライトスプリングステークスサニーライトは春のクラシックではトライアルで強さを見せながら結果を残せず、雪辱を期した菊花賞で他馬に後ろから乗っかけられて骨折し、安楽殺となった悲運の馬だった。後年のインタビューでも大塚騎手は「あの馬より強い馬には未だにめぐり会っていない」と語っていた。
6年連続重賞制覇という不滅の大記録を持つドウカンヤシマにも3〜5歳時に騎乗していた。タフな一方2歳時以外は年に1勝しかしていないことからもわかるように、難しいところのある馬だったようで、「(通常は鞍につける斤量調整用の)鉛を自分でしょってみたり、自分なりにいろいろ工夫した」というコメントを残している。
自分より歳下の騎手をぶん殴って騎乗停止になってみたり、京都に移動して一杯ひっかけてたら酔い潰れて調整ルームに入れず騎乗停止になってみたり、ちょっとアレなエピソードもあったけど、板前から転身して24歳というかなり遅い時期にデビューしながらよく勝ち星を積み重ね、大塚といえば逃げ、というスタイルがファンに広く知られるまでになった。まずまず成功した騎手生活だったと言えるだろう。
お疲れさまでした。
近い将来、競馬新聞のコメント欄あたりでまた名前が見られることを願っている。