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日本語の韻文

今年のテーマとして「生煮えでも書く」を掲げたいと思う。あと「[text] カテゴライズを恐れない」(なんでもかんでも [trash] にしない)。全く個人的なことだけど。ということで今日の一発目は以前から生煮えのこれ。
ラップやる人が日本語詞でもライミングにこだわるのに、個人的に違和感を覚えていた。単純に言えばそこまでいいもんか、ということで、そちら方面の文化に馴染めないことを抜きにしてもあまりよくは聞こえなかった。もちろんそれだけなら単なる好き嫌いに過ぎないが、これには何か理由がある気がした。
日本語にはあまり韻文詩がない。代わりに、俳句や短歌に代表される律文詩が長い伝統を持っている。中国人があれだけ昔からべしんべしん脚韻を踏んできたのだから韻文詩という概念自体は持てなかった筈はなく、それでもあまり定着していない形式だってことだ。
それは何故かというと、日本語には母音も子音もあまり種類が多くないから、だと思う。最後の母音が揃っている程度では韻を踏んでいるとは感じられない(意図しなくても発生する頻度が高いからだと思う)。まる二文字ぐらい重なって初めて韻を踏んだと感じられるぐらいじゃないだろうか。これによって、韻を踏むことで文脈が強く制限される。
それと、動詞や形容詞の終止形が全て同じ母音で終わることも影響していると思う(もっとも、韻文詩が定着している言語でも同様の言語は結構ありそう)。このために、脚韻を踏もうとすると動詞ばかりになったり体言ばかりになりがちになる。
一方、子音が独立で存在することがなく、母音の長さがほぼ同じだから、律文詩の響きは美しくなる。海外の子供なんかに外国語で俳句を詠ませているのを時々見るが、あれがちっともよくないのはこれが理由で、なんでそんなことさせるかねえ、と思う。逆に言えば外国語でも同様の条件を満たした言語ならあるいはいいかも知れない。ハワイイ語や、あと韓国語なんかがそうだろうか。
谷川俊太郎は韻文、あるいは似た響きの言葉に徹底的にこだわって『ことばあそびうた』を作り上げた。極端な例ではあるけれど、日本語で押韻を突き詰めると意味のあることは殆ど言えなくなってしまうというのを、この作品は逆説的に示しているのだと思う。著者にそんな意図があったかどうかはわからないが。
そこまで行かないにしろ、あんまりライミングに拘泥すると詞がそれに縛られて言いたいことが言えなくなる、みたいなことはあるのではなかろうかと。
スチャダラパーのラップは殆ど韻を踏むことにこだわりがない。本場のラップのような突き上げるビートもなく、どっちかというとだらだらしている。でもトラックはかっちりリズムを持っていて、ボーズもそれに上手く乗っている。多分本人たちも無自覚に、あまりとらわれずに好きなようにやっていて辿り着いたスタイルだと思うのだが、日本語のラップとしては正しい方向性だろうと思う。
特にオチは無いがとっちらかったのでこの辺で。