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『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』 デイヴィッド・イーグルマン著 大田直子訳 早川書房,2012 ISBN:9784152092922

読んだ。とても面白かった。


作者はまず意識が脳の働きであるということ(これは今日日自明だと思われがちなんだけどまだ証明されたわけじゃないんだと思う)を丁寧に例を積み上げながら示していく。次に、多くの働きが意識にのぼらないシステムであることを示していく。動作や知覚はもちろん、判断すらも実は意識が及ばないところでなされているものが多い。人間は自分の決定の理由を知らなくても一貫した判断をくだせるのだ。


無意識でこなせることのうちにはほとんど生得のものもあるが、後天的に学ぶものであっても人はどんどん無意識のもとにできるようになる。そうすることによって要する努力やエネルギーは少なくなってゆく。たとえば初めてテトリスをプレイする人はかなりカロリーを使うのだという。ところが慣れていくにつれてプレイングはどんどん自動化されていき、カロリーの消費量も減ってゆく。


ここまで来るとむしろ意識というのは邪魔になるものだと作者は書いている。テニスの対戦相手のサーブに手こずったら、どうしてあなたのサーブはそんなに入るのかと対戦相手に問えばいいのだそうだ。僕はその話を読んで、ゴルフでは他のプレイヤーのスタンスやスイングについて本人に話すことがモラルに反する行為とされているという話を想起した。多分そのふたつは全く同根のことだ。


では意識はなんの役に立っているのか。作者は意識を CEO に例える。脳の中のさまざまな無意識の働きがもたらす大量の情報を整理し、時にコンフリクトを起こす複数の働きを仲裁したり優先順位を決めたりする。ラットのようなもっと単純な脳の持ち主は、複数のシステムの優先順位をつけることができず、ある種の二律背反の状況では簡単に立ち往生してしまう。


ところが、人間の意思決定のタイミングは、当人が思っているよりもどうやら早いらしいのだという。人がある動作をしようとしているときの脳の働きをモニタすると、意識の上で決定するタイミングよりもかなり早い段階で動作をつかさどる回路が働き始めている。人間は自分の意思でこうすると決めた心算のことも、実は無意識に決めていて、意識はそれを決めた心算になっている、というのがより正確なところらしい。


そうだとすれば、自由意志というのは存在するのだろうか。作者は慎重な書き方をしているが、しかしかなりはっきりと否定している。決断する以前に脳が次の行動を決めているのであれば、それを自由意志と呼ぶことは難しい。百歩譲っても、人間が意思でコントロールできるのは無意識下で動き出した動作を止めることぐらいではないかと作者は書いている。だがそれを自由意志と呼べるかどうかは疑わしい。


さらに作者は外傷や腫瘍のような脳の器質的な変化や、ごくわずかの薬物の影響が、人の性格や行動を劇的に変えてしまう事例を並べる。結局のところ、人間は自分がなにをしたり言ったりするかをほとんどコントロールできないのだ。だから、現在の裁判における責任能力という考え方は意味をなさないし、刑罰というのも基本的には無意味だ。意識を変えさせようとしても仕方がない。意識の下にある働きを変えなければならないのだ。作者は前部前頭葉レーニングという方法でそれが可能だと書いている。将来的には法律と刑罰のあり方を変えていくために、作者はすでに活動を開始しているらしい。





なかなかにすごいことが書かれているのだけど、僕はそれでなにか自己認識が大きく変わってしまうようなことはなかった。たぶん多くの人はそうで、だって主観的にはやっぱり僕(という意識)は僕のすることをリアルタイムにすべて自分自身で決めている。このあまりになじみのある感覚が、本に書かれている理屈を読んだだけで急に揺らぐようだったらむしろ危うすぎるというべきだろう。


その一方で、言われてみるとそう考えた方が筋が通っていそうだと比較的容易に納得できることもいろいろ書かれていて、そこがこの本の説得力につながっている。たとえば好みについて。大抵の人は自分の好みの顔を具体例抜きで伝えることはできないけど、でも好きな顔とそうでもない顔との区別は明確にある。あるいはひらめきについて。アイデアというのは突然頭に浮かぶけれど、それだってまぎれもなく脳の働きから生まれている。そして、そのひらめきを生むためには意識的な入力を繰り返さなければならない。


そして、作者は意識の下で働くシステムにも働きかけることはできるし、あらたなサブシステムを作ることができるとも書いている。そうだとすれば、仮に意識が「自分で全部決めているつもりの傍観者」なのだとしても、自由意志なんてものがないも同然だとしても、やっぱり人は自分の考えることやすることをある程度コントロールしようとすることはできるのだと思うのだよね。いやまあもちろんそのコントロールしようという意思がそもそも、という話にはなるのだけど、それもなにもないところに生じるわけではなくて、自分の半生の積み重ねが反映されているのだとは言える。そうだとすれば、僕にとってはそれでまあまあじゅうぶんだ。