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『米原万里ベストエッセイⅠ』 米原万里 角川文庫,2016

2006 年に惜しまれながら亡くなったロシヤ語通訳で作家としても活躍した著者のエッセイ集、全二巻のうち一巻目。初出はさまざまな雑誌だったようで、筆致も長さも比較的ばらつきがある。
なんといっても一編目に収録されている「トルコ蜜飴の版図」が圧巻だ。ケストナー点子ちゃんとアントン』に登場する「トルコ蜜飴」の話を枕に、幼少時に住んでいたプラハでロシヤ人少女に食べさせてもらった缶入り菓子の思い出を軸に、東欧から中東圏に存在するとされる幻の菓子「ハルヴァ」にまつわるエピソードと書物などから得た知識を語りまくる。著者とハルヴァとの関わりと距離がまさに幻の菓子と呼ぶにふさわしく、また長年にわたる執拗ともいえる強い思いとそれに応えるかのようにハルヴァがその姿をちらりちらりと見せるさまが、読者にまで希少感を呼び覚ましてやまない。書物から引用する文章がまたいいんだよね。正確には憶えてないけど「原材料の全てが泡状になって調和していなければならない」っていうくだりとか、どんなお菓子だか不思議でもあるし、でもすっごくおいしそうでもある。個人的な体験を基にした話はもちろん本人にしか書けないものであるけれど、大げさにいえば、作者の人生の幹から直接分かれている大ぶりの枝を辿っていっているような感じがした。一度でいいからハルヴァなるものを食べてみたいものである。
他では「四十年来の謎」が面白かった。往年のロシヤでは家庭科の裁縫でまっさきにパンツ(下着のほう)の作り方を教えていたのだという。なぜそんなに難しいものをいきなり教えるのだろう? という疑問から始まるエッセイで、やはり作者の個人的な体験を交えつつ旧ソ連のパンツ事情を語り、そして想像している。民俗学的にもちょっと面白い話なんじゃないかなと思った。
比較的特異な生育環境、通訳という職業、そして本人の観察力と洞察力。さまざまな要素が併せ持たれることで、著者の作家としてのユニークさが形作られていることがよくわかるエッセイ集で、もちろん普通に読んでも面白い。著者のことが気になっていたとか、名前は知っていたけど読んだことなかったとかいう向きは、手にとってみるとよいと思う。





しかし、2006 年か。なんだかつい最近亡くなったような気がしていた。少し調べていたところ目に入ったネットのうわさによれば、がんとの闘病生活はさまざまな代替療法に惑わされるつらいものであったようだ。それから 10 年経つが、その界隈の状況が改善されたという話は聞かない。これほど聡明な人でもそのようなことになってしまいうるのだと思うと、暗い気持ちにならざるをえない。