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『スパイス、爆薬、医薬品 ― 世界史を変えた17の化学物質』  ジェイ・バーレサン、ペニー・ルクーター著/小林力訳 中央公論新社,2011-11-24

原題は "Napoleon's Buttons" だから「ナポレオンのボタン」。あー銃病鉄*1の影響ねーと思ったけどいま調べてみたらあれ日本語版 2000 年とかだったわ。十年以上タイトルに影響を及ぼし続けた本ということになるか。実際一度はやってみたくなるもんなあ。原題のほうは見るだけでぴんと来た人もいたかもしれないけど錫ペストの話で、本書の序章で取りあげられている。錫は極度の寒冷環境に置かれると同素変態を起こしてやがて崩壊する。ナポレオンのモスクワ侵攻において、兵士たちの軍服のボタンが錫製であったことから錫ペスト現象が起き、防寒機能を失ったことでナポレオン軍は大敗を喫した、という説があるのだ。本書ではそれは都市伝説であろうと断じているのだけど(朽ちたボタンはひとつも見つかっていないし、実験室ベースで錫ペストが起きるのに必要と考えられる期間よりもナポレオンの遠征ははるかに短いため)、しかし物性が歴史を変えることは起こりうるのだと述べる。
そして第一章からは世界史に大きく影響したさまざまな物質について、ひとつひとつ語られていく。本書のユニークなところは、それがどう歴史を動かしたのかという説明とともに、科学的性質について分子構造にまで踏み込んで触れられていることだ。シルクはなぜ滑らかなのか。トランス脂肪酸がどのような形態であるから身体に悪いとされるのか。モルヒネの作用はモルヒネの分子構造のどの部分に由来するのか。最後のモルヒネについては「モルヒネ則」という経験的なルールが知られているらしく、分子構造に関わるその四つのルールを満たしている、あるいはそれに近い物質は麻薬に近い作用があることがわかっているのだそうだ。本書では触れられていなかったけど、これって合成麻薬作るときに蓄積された知見だよねたぶん。
そしてメインとなっている歴史的な経緯もなかなか面白く、たとえばイギリスがオランダからマンハッタン島を手に入れた経緯とか普通に知らなかった(クイズやってる人は知ってそうなのに)。現インドネシアのルン島という小さな島と交換したのだけど、この島にはナツメグがたくさん生えていて、オランダはどうしてもそれが欲しかった。それぐらいナツメグという植物は重要視されていた。そしてニューアムステルダムと名付けられていた植民地はニューヨークという名前になった。ニューヨークの現在はみなさんご存じの通りだ。ルン島はいまや特別なことはなにひとつない小さな島になってしまっているという。もちろんこれは結果論に過ぎないのだけど、大事なのはナツメグがそれだけの力を持っていたということだ。
そんな感じで軽やかに、世界史や医学、現代社会なんかの話と化学の話を行き来しつつ、様々な物質が登場して語られる。訳者は化学系の人らしく、化学物質周りの翻訳もしっかりしているので(何箇所かは図の補足すらしている)わりと安心して読める。面白かった。個人的にこの手の本好きでつい読んじゃうので、さすがにこれぐらいにしとこうかなとは思ったけど、この本の評価とは別の話。

*1:ジャレド・ダイヤモンド『銃・病原菌・鉄』